「ふるさとの小径を行く」 -029/168page

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縄文時代の
上手渡遺跡

 上手渡公民館の南、庚申山の南麓から、昭和四十一年の土木工事の際、縄文式土器の破片が見つかり、遺跡として登録されました。庚申山の頂上周辺を今のような平らにするための工事中、住居跡らしいものも認められたがそのまま作業を続けてしまったともいわれています。山の登り口に、寛延四年(一七五一)建立の庚申塔が一基みられます。

上手渡遺跡出土の出土品
上手渡遺跡出土の出土品

ノート 2

小手六十三騎

小手郷には「小手六十三騎」と呼ばれる武将たちの話があり、郷土の誇りとして語られ、記録されてきました。

 この人たちは農民の中でも豪族で、上杉景勝の武将須田大炊介(梁川城主)の配下となり、慶長五年に福島城本庄繁長を攻めた伊達政宗の軍勢を松川の戦いで打ち破り勇名をはせました。この手柄によって須田大炊介より黒印状を下付された六十三人を言いますが、本町関係者としては次の七人がいます。

  • 田代五左エ門=六十三騎の組頭(下糠田村野竹原館)
  • 斎藤又左エ門=二五〇石(手渡村、居所不明)
  • 佐藤弥右エ門=二〇〇石(上糠田村、坂下館)
  • 加藤仁右衛門=二〇〇石(布川村、村石か)
  • しぶ屋助右衛門=二〇〇石(御代田村、前柳館か)
  • 大川内藤次郎=二〇〇石(御代田村、殿城館)
  • 佐藤帯刀=一〇〇石(御代田村、春山館か)
 このほか、若松から最上氏攻めに参加して戦死した人に佐藤三郎兵衛(下糠田村、居所不明)がおります。


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