「ふるさとの小径を行く」 -032/168page

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その時も会計奉行を勤め、慶応三年には老中格となり、大政奉還の大任を果たしました。その後、明治となってからは学習院の初代院長となり、貴族院議員に列せられました。

「下手渡藩領地図」
「下手渡藩領地図」

 下手渡藩の領地は、図のように点在し、石高一万石でした。安政二年には、石田方面の四ヶ村と三池の旧領とを換地して、九州と奥州に領地を持つことになり、明治元年には本領を三池に移します。

戊辰戦争と下手渡

 戊辰戦争のとき、県内のほとんどの藩は四月に仙台藩を盟主とする反西軍の奥州列藩同盟を結びました。当時、下手渡の本家である柳川藩は西軍側にあって東征を始めており、下手渡の立場は大変むずかしいものになっていました。藩主の種恭侯は、三月末に下手渡を発ち三池に向かう途中、兵庫から折り返して東征軍に加わっているのです。この間の様子を伊達郡誌では次のように記しています。「小手村、立花種恭の所領として大字下手渡に城館を置けり種恭が慶喜大政奉還と共に一向に恭順の意を表し東奥十七藩の同盟加入せざりしを以て東軍( 仙台兵)の侵すところとなれり八月十六日其の来襲を受くるや当時藩主不在にして在藩の士又少かりしも之を御代田に防ぎ次きて同大字口明石山附近に防戦大に努むと雖も然も衆寡元より敵すべくもあ


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