「ふるさとの小径を行く」 -126/168page
名と思われます。
ここにあった阿弥陀堂は、天正年間に下手渡館山城主の子孫、手渡周防守宗成の臣であった原将監が阿弥陀仏を信仰してこの地区を開拓し、それが成功したときに建立したものといわれています。地名の「原」は原将監にちなむものとも言われています。
その後、館山城が伊達政宗に攻められたとき、原将監は主君手渡周防守とともに再起を期して相馬へと逃れ、阿弥陀堂はそのまま残されたと伝えられています(「下手渡郷土の栞」)。
また、「信達一統誌」等には、阿弥陀仏は行基菩薩の作と伝えられ、地名の天平は当時の年号によるものかとの説もあげています。
また、足利時代の頃か、原将監という人がこの地に来て、阿弥陀仏を信仰しつつ附近の開拓に当たって成功したが、後に土地の豪族(亀居館の大内氏)と折合わず、遂に阿弥陀堂を残して相馬へ去ったという話も伝えられています(「月舘町伝承民話集」)。
八雲神社
下手渡城下町バス停で下車、西方徒歩十分ぐらいのところ、字館に鎮座まします。祭神に神速須佐之男命をお祀りしてあります。
下手渡の住人、斎藤重蔵の祖父又左エ門が上杉景勝の臣(小手六十三騎の一人)のとき、尾州津島より分霊を請うて産土神としたと伝えられています。
下手渡を一望に収める景勝の地に、周囲七メートルにも及ぼうかと思われる老けやきをはじめ、松や杉の大木に囲まれて高い石段の上に鎮まりかえっています。郷内全戸を氏子とし、旧六月十四日が例祭です。
神社の造作は荘厳にして優美、正面の竜やその他の彫刻のすばらしさは他に例をみないほどです。本殿の建築もまた結構を極めています。