あだち野のむかし物語 - 004/037page

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木幡(こはた)の幡(はた)祭り
   
 
東和町

 木幡の幡祭りは、日本三大幡祭りの一つといわれ、九百余年の歴史と伝統をもつお祭りです。白旗を先達(せんだつ)に、赤、青、黄、緑と、色とりどりの五反旗(ごたんばた)、百数十本が勢揃いし、法螺貝(ほらがい)を吹き鳴らしつつ木幡山の尾根を縦走します。

 この祭りの由来は、前九年(ぜんくねん)の役(えき)の天喜(てんぎ)三年(一〇五五)にまで遡(さかのぼ)ります。後冷泉(ごれいぜい)天皇の命を受け、陸奥(むつ)征伐に出向いた源 頼義(みなもとのよりよし)とその子八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)(源義家)の率いる軍勢は、安達の川崎辺りでの戦いで、安倍貞任(あべのさだとう)、宗任(むねとう)兄弟に敗れ、わずか数騎で阿武隈川(あぶくまがわ)を越えて逃れてきました。その当時は「外木幡(そとこはた)」といったそうですが、今は「御所平(ごしょがだいら)」という所にある農家まで逃げて来て一夜の宿をとったのでした。

 すると、その夜、天女が夢枕に現れ、

「ここから東方一里ばかりにある弁財天宮(べんざいてんぐう)で祈願しなさい。そうすれば願いが叶うであろう。」と、お告げになりました。

 源頼義、八幡太郎義家父子らは、さっそく、昔「いさずめ」と言っていた今の木幡山へ馳せ参じ、神社で戦勝を祈願しました。一方、安倍頼時(あべのよりとき)は、その子安倍貞任、宗任兄弟を従え、伊達の信夫に陣を構えたのでした。そしてその軍勢が追いかけて来たといいます。今の「針道」のところから、「下馬(げんば)」という所まできたのだそうです。

 その夜は、旧暦(きゅうれき)の十一月十八日のことといいますから、木幡山の大杉は北の方に枝がなくて、南の方にばかり枝が付いていたのですが、それにどっさりと雪が降り積もりました。安倍兄弟は、敵を皆殺しにしてくれようと思って、勇んで攻めてきたのですが、下馬の所へきて見てみると、源氏の白旗で山がいっぱいになり、軍勢が大勢いるかのように見


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