あだち野のむかし物語 - 005/037page
間違えてしまったのです。目をむいて驚き、さしもの安倍貞任、宗任も馬の手綱(たづな)をぎゅっと引き締めたといいます。すると、馬がびっくりして、後退りしてしまったというので、今でもそこの場所を「至去(しさる)」というのだそうです。安倍の軍勢は戦わずして引き返してしまいました。
源頼義、八幡太郎義家父子は、戦をしないで勝った訳ですが、木幡山の北の方に勝屯内(かつたむろうち)という字が残っていて、そこの近くに八間石(はっけんいし)という平らな、大きい石があり、そこで、みんなで一晩飲み明かしたそうです。そして、そこの石に八幡太郎義家が乗っていた馬の足跡があるのだといいます。また、その下の方に関場という所があるのですが、ここでは、川をせき止めて関堀で馬を洗ったとか。ここにも馬の足跡があるということです。
これが陸奥鎮定(ちんてい)の要因となり、朝廷に奏上(そうじょう)したところ、後冷泉天皇はこの山を「木幡山」、山裾の別当寺院を「治陸寺(じろくじ)(陸奥を治める)」と名付けられ、宸筆(しんぴつ)の額(がく)を賜ったのです。
以来、神仏の加護を深く信ずる里の人々は、源氏の白旗になぞった手織りの五反旗を作って木幡山を練り歩き、源氏の武勲(ぶくん)を称え合ったのです。そして、そのことが今に伝えられ続けているのです。
昔は、自分の家で織った絹の白旗ばかりだったそうですが、今では、それに色もつけた方がよいということになって、各「堂社(どうしゃ)」ごとに区切りをして、先達(せんだつ)(案内人)という人が、白い旗を持つことになった訳です。また、買ってきた反物でも、山の木にひっかかって裂(さ)けてしまった物でも、女の人たちが縫い物をすると、ちゃんと着物になるようになっていたといいます。そういう訳で、どこの家でも喜んで旗にする反物を出してくれたし、また、余った反物は、背負ってお山参りをしたものだそうです。
現在、木幡の幡祭りは、毎年十二月の第一日曜日に行われています。