あだち野のむかし物語 - 007/037page

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た。そこが布沢の鳥井戸(とりいど)だと伝えられています。弁天様が、そのきれいな湧水(ゆうすい)で手を洗うと、いつしか痛みや出血も止まって、もとの手のように美しくなったといいます。でも、先刻(さっき)の事がまだ心に掛かって忘れられず、落ち着けずにいたせいか、井戸尻の泥水の中に滑り落ちてしまったから、さあ大変。打掛け羽衣、薄絹や飾り物、果ては下着まで泥だらけになってしまいました。「ああ、今日はなんという悪い日だろう。」思えば思う程、泣くにも泣けず気を落としていました。

 しかし、しばらくして漸(ようやく)く心も落ち着きましたので、弁天様は、沢の流れまで下りてみました。すると、枯れ草の間から春の雲の影を静かに映している小さな池がありました。水のきれいな美しい沼でしたので、弁天様は、着物を着たまま池の中に入り、丁寧に一枚ずつ衣を脱いでは洗い、一つまた一つと絞り上げて、しまいには一糸もまとわぬ姿になっていました。こんなところを誰かに見られでもしたら大変です。弁天様は、そっと辺りを見回してみました。幸い、誰もいません。背伸びして見てみますと、少し高い山に、日当たりも良く、枝ぶりの良い傘松がありましたので、「そうだ、あそこにしよう。」と、弁天様は、独りつぶやきながら細い坂道を登ってその松に衣を干しました。裸ですから、恥ずかしさをこらえて松の根元に身を隠し、衣の乾くのを待っていました。

 陽の光は弁天様の頭近くまで高く上がり、風は静かに花の匂いをゆすりこぼすように吹いて、いつしか昼間近くになっておりました。

 その頃です。薪(たきぎ)を背負い、口笛を吹きながら愛宕山の方から下って来る若者がおりました。若者が松の木の下にさしかかりますと、いずこからともなく、雅(みやび)やかな音楽が静かに流れ響き、得(え)も言(い)われぬ不思議なかぐわしい香りに包まれましたので、思わず立ち止まってしまいました。若者が静かに見回しますと、美しく伸びた松の枝に、薄絹の天女の衣があらかた乾いて、風にひらひらとはためいているのが見付かりまし


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