あだち野のむかし物語 - 012/037page
お杉さんの伊勢まいり 岩代町いまから千年ほどむかし、京の都に精顕(せいけん)という若者が、菜の花の咲く頃陸奥(みちのく)めざして旅にでました。陸奥に着いたときは、もう秋のなかばで、紅葉(こうよう)の美しい山をながめながら、杉沢(すぎさわ)の里にさしかかりました。
のどが渇(かわ)いた精顕は、道ばたにこんこんと湧(わ)き出る泉を見つけ、近寄って手をさしだしましたが、泉の水に映っている娘の姿を見て、おどろいて手をひきました。年のころ十六、七の美しい娘が、愛しげに精顕を見つめているではありませんか。精顕が振り返って見ると、そこには娘はおらず、ただ、すらりとした杉の若木が一本立っているきりでした。精顕は不思議(ふしぎ)なこともあるものだと、また泉の水を覗(のぞ)き込みましたが、もう娘の影はきえうせておりました。
その夜、精顕は杉沢の里からほど近い新殿(にいどの)の旅籠(はたご)吉田屋に泊まりました。精顕は昼間見た泉の娘のことを思い出し、なかなか寝つかれずにおりました。
夜半近く精顕は、隣の部屋に人の気配(けはい)を感じましたが、泊(と)まり客でも着いたのだろうと気にとめずにおりました。やがてサヤサヤと木の葉のゆれ動くような音がし、それがいつか、妙(たえ)なる琴(こと)の音にかわり、すうっと間の襖(ふすま)が開き、緑色の光がさしました。精顕は思わず、床の上に起き上がり、目をこらし緑色に輝く部屋を覗くと、美しい少女が、琴を前にして座っております。まぎれもなく泉に映っていた娘でした。
あいも見つ見られもしつつ思い川思うは後のおうせなりけり
と娘は、琴に合わせて歌いました。それは天人(てんにん)のそれと思わせる、美しい声でした。精顕は思わず娘のかたわらへにじりよりました。とたんに、娘の姿も緑の光も消え、精顕は真っ暗な部屋に一人座っておりまし