あだち野のむかし物語 - 021/037page
して、亡き人の冥福(めいふく)を祈りつつこの山の頂に錫杖(しゃくじょう)を立てたのです。また、当時国の政治を司っていた平家(へいけ)は、「平家にあらずんば人に非ず。」との勢いで、平家の武士どもが国を守ることを忘れ、世の中が大変乱れておったところから、盛遠はここで世の平安を祈ったのです。以来、この山一帯を土地の人々は錫杖山(しゃくじょうざん)と呼ぶようになりました。
錫杖山で修行を重ねた盛遠は、さらに北へ行き杉田川を安達太良山の中腹まで遡(さかのぼ)り、深山霊谷(しんざんれいこく)の中で滝に打たれ荒行(あらぎょう)を重ねたのです。以来この滝は遠藤ケ滝(えんどうがたき)と呼ばれるようになったのでした。
この地で盛遠は、阿武隈川の東側に徳一(とくいち)大師が創建した寺のあることを知り、彼の地へ向かったのです。阿武隈川を渡り、山を登った盛遠が見たものは、すでに荒れ果てた寺だったのです。それで盛遠は、この寺の再興に努めました(現白沢村・高松山観音寺)。
この高松山から見えるものは、自分が修行を重ねた殕森の山々や、荒行を積んだ遠藤ケ滝を懐(ふところ)に包み込む雄大な安達太良山と安達の里の広がりを持った大自然でした。
旅の修行を終え、都に還った盛遠は文覚上人(もんがくしょうにん)と言われる位の高いお坊さんになりましたが、後白河法皇(ごしらかわほうおう)に不敬(ふけい)の罪で伊豆国(いずのくに)に流されてしまうという運命が待っておりました。
当時、伊豆国には流刑中の源頼朝(みなもとのよりとも)が悶々(もんもん)とした日々を過ごしておったのです。全国を行脚し、修行を重ねつつ世の中を悉(つぶ)さに見てきた文覚上人は、流刑(るけい)の身にあった頼朝に向かって「国の政治を司っている平家が、自分の世とばかりに遊び惚(ほう)けている。地方では群盗がはびこり都には野盗が出て夜は出歩けないほどで、世の中が大いに乱れている。平家を倒すのは今以外にない。」と源氏の挙兵(きょへい)を促(うなが)しました。
これが源氏の旗揚(はたあ)げの物語であり、源平合戦の幕開けになったのです。