あだち野のむかし物語 - 022/037page

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藤原実方朝臣(ふじわらのさねかたあそん)と五百川物語
   
 
本宮町

 それは、長徳(ちょうとく)一年(九九五)のことです。左近衛(さこんのえ)中将まで昇った歌人の藤原実方朝臣は、殿上で大納言藤原行成(ゆきなり)と口論の末、笏(しゃく)で行成の冠(かんむり)を打ち落としてしまい、そのことが一条(いちじょう)天皇の勘気(かんき)にふれ、天皇より「陸奥国の歌枕(うたまくら)をみてまいれ。」と命じられ、陸奥守(むつのかみ)に任ぜられ几三諸(おおちのみもろ)・坂上邦別(さかのうへのくにわけ)・橘熊雄(たちばなのくまお)・大伴豊掲(おおとものとよかつ)・小野荒金(おののあらがね)・田口八潮(たぐちのやしお)・金幸軍(かねのさきくさや)・笠数鹿(かさのかずしか)の八人の従者を従え陸奥国に旅立ちました。

 実方は、遠く京の都から陸奥国へ下向(げこう)の道々大小の川を渡り、そのことを帳面に記しながら五百番目の川の里、当地にたどり着いたのでした。これが五百川の名称の起こりです。

 当地では五百川の上流の横川(よこかわ)(郡山市)に舘を構え、そして松幌山(まつほろやま)(現本宮町大字小屋舘山)に別邸を造り住み、都からのよい報せを待っておりました。春三月、松幌山の別邸で都から従ってきた家臣どもと共に杯(さかずき)を交わしながら、ここからの眺望と自身の心を次のように詠んでいます。

蕩々流水   豊々苗田   牛馬絡繹   人家綿連   俯臨下土

仰望上天 天徳恢々   吾懐悠々   浮雲未尽   長蔽帝州

 この歌から岩根の古い地名(現本宮町大字岩根の一部)の苗代田(なわしろた)が生まれたと伝えられております。

 ある日、実方が五百川の上流を探索(たんさく)に出掛けたとき、豪雨に遭(あ)い体をこわし別邸に担ぎ込まれましたが、それがもとでこの地で亡くなってしまいました。それは、長徳四年(九九八)十二月十二日のことでした。


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