あだち野のむかし物語 - 023/037page

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 その後、夫実方を慕って夫人の重児女臈(しげこのいらつめ)が、遠い陸奥国にたどり着きました。しかし、その時すでに実方は他界した後だったのです。その折りに重児女臈が詠まれた歌は

 吾背児鵝影乎六栖比志水泡叙常於保布袂波先比知爾鶏利
(あがせこがかげをむすびしみなわぞとおほふたもとはまずひちにけり)

 夫人は嘆き悲しみの日々を過ごしましたが、食を断ちやはりこの地で亡くなりました。

 実方が他界したとき、里の人びとが実方朝臣の徳を慕って従者八人と共に、帳付(ちょうづけ)大明神として五百川流域の村々に、七宮を建てて祀(まつ)りました。美しく清い流れの五百川をいつまでも守るように、猿田彦命(さるたひこのみこと)を神に戴いて祀るようにとの実方の願いでもありました。

 それらのお宮は、高倉(たかくら)(郡山市日和田町)、新居(あらい)(本宮町大字荒井)、太田(おおた)(本宮町大字青田(あおた))、苗代田(いなわしろ)(本宮町大字岩根)、谷地(やじ)(本宮町大字仁井田)、羽瀬石(はぜいし)(本宮町大字岩根)、横川(よこかわ)(郡山市熱海町横川)でした。しかし、明治以後これらの帳付大明神は、横川・青田の他は、それぞれ村社や地域の神社として地域の名称の神社に改称されています。

☆藤原実方は当地方の歌枕では次のように詠んでいます。
〔後拾遺和歌集第十九 雑五 かたらいける人のもとにみちのくより弓をつかはすとてよみはべる〕

 みちのくのあだちの真弓君にこそ思ひためたる事もかたらめ


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