あだち野のむかし物語 - 036/037page

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抱付観音(だきつきかんのん)
   
 
本宮町

 ここの観音さまの起こりは、役の行者(えんのぎょうじゃ)が開基(かいき)したもので、鎮護国家(ちんごこっか)の霊場(れいじょう)です。行者が閼伽(あか)の水を汲もうと立ち寄ってみたところ、湧き出る泉は清く清々(すがすが)しいところだったのです。しばらく佇(たたず)んでいた行者は、峰の中腹に紫雲(しうん)のたなびくのを見て観世音の霊場であることを悟ったのでした。

 寿永(じゅえい)年間には、源義経(みなもとのよしつね)の御騎馬で墨黒(すみくろ)という駒(こま)を、この地から出して国の平安に功績があったとのことです。夜の丑(うし)の刻(こく)ともなれば、葦毛(あしげ)の駒が池の波を蹴立てて渡り、駒のいななきの声がすることが度々あったといわれ、現に、それを見た者もいたそうです。

 その後、玄丘(げんきゅう)という僧がここに来て清水で口をすすぎ松の枝の下で睡眠をとっていたところ、仙人があらわれて、

「この山の中腹に大きな岩がそびえ立っている。あなたはそこに観世音の祠(ほこら)を建てて、上に正覚(しょうがく)を求め、下に衆生(しゅじょう)を導きなさい。」といったとき、玄丘は夢から醒(さ)めたのでした。

 さっそく山を登ってみれば丈六ほどの大きな岩がそびえ立っていて、その上に光明が射し輝いておりました。玄丘はそれを見て、心にやすらぎを受け礼拝したのです。そして、この地に祠を建てて観世音の尊像を安置(あんち)しました。それから毎夜灯籠(とうろう)に明かりを灯(とも)し続けました。

 里の人びとは、玄丘のその思いに心を傾け、観世音に帰依(きえ)して無病息災をひたすら祈りました。その願いはことごとくかなえられていたといわれます。

 天正(てんしょう)年間、ここに土手を築き池を造り、田畑の用水としました。この清水はたとえ百日の日照りが続いても渇(か)れることはなかったと、里の


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