わたしたちのきょうど にほんまつ -047/055page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

世の中のためにつくした人々

 二本松に生まれ世の中のためにつくした人々や、よその土地に生まれ二本松にまねかれて二本松のためにつくした人々をしょうかいします。

 ここでしょうかいする人たちは、いろいろなくろうをし、それをのりこえて世の中のためにりっぱな仕事をしました。二本松市が歴史と文化、学問のさかんな町として栄(さか)えているのも、これらの人々のおかげです。このほかにも二本松から多くのすばらしい人々が出ていますが、限られた人だけしょうかいしてありますので、先生や家の人などから聞いてください。また、自分から図書館などでここに書いてある人々ばかりでなく、二本松にゆかりのある人々をたくさん調べてみてください。きっと社会科の勉強ばかりでなく、これからの自分の生きる道しるべにもなると思います。

氏    名 こ と が ら
磯村 吉徳
(いそむら よしのり)
(生年不詳〜1710)
 算学者(さんがくしゃ)(和算(わさん))として有名です。
 二本松藩初代藩主(しょだいはんしゅ)丹羽光重公(にわみつしげこう)につかえ、二合田用水(にごうたようすい)工事の測量(そくりょう)や設計(せっけい)にあたりました。
 この用水は、安達太良山のふもとから霞ケ城を通って、途中(とちゅう)の田畑をうるおし作物の成長に大切な役目をはたしてきました。
 工事は、江戸幕府のゆるしがほしかったのですが、ゆるしをとらずに夜間ちょうちんの明かりを利用して工事にあたったと言われています。
 吉徳(よしのり)は、宝永(ほうえい)七年(1710年)この世を去りましたが、そのお墓は、根崎の善性寺(ぜんしょうじ)にあります。数学者であったことから数学がわかるようにと、今でもお墓参りをする人がたえません。
安部井 磐根
(あべい いわね)
(1833〜1916)
 二本松藩士(はんし)の子どもとして生まれました。磐根は大変な勉強家で、青年の頃、本居宣長(もとおりのりなが)の本を読みとても感動し、「古事記伝(こじきでん)」四十八巻を読みこなし、四年がかりで全部書き写しました。この写本(しゃほん)は、今でも郭内の家に大切に保存(ほぞん)されています。
 また、初代の県議会議長として、議会での堂々(どうどう)とした態度(たいど)は、今でも議長をつとめる人の手本となっています。その後、第一回衆議院議員選挙(しゅうぎいんぎいんせんきょ)で当選(とうせん)し、副議長までつとめました。その時、汚職(おしょく)をした政治家をあいまいにすることなく、不正をなくすことに努力しました。
 磐根(いわね)は、自分の家財一切(かざいいっさい)を公共事業(こうきょうじぎょう)などに寄付(きふ)することを言い残し八十五歳で亡(な)くなりました。


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は二本松市教育委員会に帰属します。
二本松市教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。