わたしたちのきょうど にほんまつ -048/055page
山田 脩
(やまだ おさむ)
(1841〜1921)二本松に生まれ、明治十年には自分からアメリカに渡(わた)り、ニューヨークの絹織物業者(きぬおりものぎょうしゃ)に生糸(きいと)を売るために支店を開きました。そのため、外国でも二本松製糸(せいし)会社の生糸(きいと)は有名になりました。
ところが、明治十九年には世の中が不景気(ふけいき)になり、二本松製糸(せいし)会社は解散(かいさん)しました。しかし、脩(おさむ)は今までの土地や建物を引き受け「双松館(そうしょうかん)」という製糸(せいし)工場をつくりました。
その他にも、安達地方にすぐれた製糸(せいし)技術を広め、福島県蚕糸(さんし)学校をつくることに努力しました。また、二本松町長になり、町のためにつくしました。脩翁(おきな)の銅像(どうぞう)は、霞ケ城公園内の「双松館(そうしょうかん)」のあとに建てられています。塩田 カ蔵
(しおた りきぞう)
(1864〜1946)二本松に生まれ、陶磁器(とうじき)(せともの)の研究者として有名です。福島師範(しはん)(今の福島大学)を卒業し、二本松の小学校の教師になりましたが、その後上京し陶器(とうき)の研究を一生懸命(いっしょうけんめい)に行いました。その研究は東京美術学校長の岡倉天心(おかくらてんしん)に認められるほどになりました。
力蔵が陶磁器の研究に進んだのは、兄の健蔵(けんぞう)が二本松万古(塩田万古)を作り、売っていたからだと言われています。
力蔵は陶器の本づくりにも一生懸命(いっしょうけんめい)に取り組み、十年間もかけ立派な本を完成させました。明治・大正・昭和にわたって、陶磁器の研究者として全国的にも有名です。服部 宇之吉
(はっとり うのきち)
(1867〜1939)二本松に生まれ、中国哲学(人の生き方などを研究する学問)者として有名です。
小さい時に両親を亡(な)くしましたが、苦労(くろう)しながらも勉学(べんがく)を続け、東京帝国大学(今の東京大学)を卒業しました。
中国やドイツに留学(りゅうがく)した後、中国の北京大学教授やアメリカのハーバード大学の教授になりました。また、東京帝国大学の教授にもなりました。
「詳解漢和大辞典(しょうかいかんわだいじてん)」は、今でも多くの人に利用されています。朝河 貫一
(あさかわ かんいち)
(1873〜1948)二本松に生まれ、世界的に有名な歴史学者となりました。
特に有名な話は、中学時代の貫一は、英語の辞書を1ぺ一ジごとに暗唱(あんしょう)し、暗唱した後はそれを破りすてたり食べたりしてしまい、残った表紙は校庭の桜の木の根元にうめたということです。この桜は、母校の安積(あさか)高等学校に「朝河ざくら」と呼ばれ、今も残っています。