わたしたちのきょうど にほんまつ -049/055page
安積中学校(今の安積高等学校)・東京専門学校(今の早稲田大学)では、苦学(くがく)を続けながらいつも成績は一番だったと言われています。その後アメリカに留学するとともに、日本人として初めて博士号をうけ、工一ル大学の教授になりました。また、世界的に有名な歴史の本を書きあげました。
貫一はこの世を去るまでアメリカに住んでいましたが、日本を思い続け、日本がアメリカと戦争をしないように努力しました。久保 猪之吉
(くぼ いのきち)
(1874〜1939)二本松藩士(はんし)の子どもとして生まれ、耳鼻咽喉(じびいんこう)科の名医として有名です。
小学校時代は背中にいつも小さな弟を背負い、手には英語の本と紙切れ、そして短くなった鉛筆(えんぴつ)を持ち歩いていたと言われています。
福島中学(今の福島高校)に入学してからは、家から20キロメートルもある福島まで歩いて通いました。午前三時半には起きてご飯(はん)を自分で炊(た)き、弁当を作って午前五時には家をでなければなりませんでした。
その後、苦学をして東京帝国大学(今の東京大学)を卒業しました。さらに、ドイツに留学(りゅうがく)して勉強に励み、九州帝国(ていこく)大学(今の九州大学)の教授になりました。
耳鼻咽喉科の進歩(しんぽ)に役立つ重要(じゆうよう)な資料を数多く残し、学問への愛着(あいちやく)と情熱(じょうねつ)は生涯(しようがい)変わることがありませんでした。高橋 信次
(たかはし しんじ)
(1912〜1985)二本松市亀谷に生まれ、エックス線断層撮影技術(だんそうさつえいぎじゅつ)の開発者(かいはつしゃ)として有名です。
信次は・安達中学校(今の安達(あだち)高校)で学び、東北帝国大学(今の東北大学)医学部を優秀(ゆうしゅう)な成績で卒業しました。
小学生のころは大きな土蔵(どぞう)の中で、小学生にしてはかなり程度(ていど)の高い本を読んでいました。中学生のころは、あまりめだちませんでしたが、勉強に一生懸命(いっしょうけんめい)取り組むとともに、柔道(じゅうどう)部に入り熱心に練習に励(はげ)みました。
大学卒業後は専門(せんもん)の勉強に打ち込み、エックス線によって人体の横断面(おうだんめん)や割面(わりめん)を作りました。これを組合わせて観察することによって、ほとんど人体を解剖(かいぼう)したときに近い所見(しよけん)を出すことができるようになりました。
この研究は現在のコンピュータ断層撮影法(だんそうさつえいほう)のもとになっており、病気の治療(ちりょう)にも大変役に立っています。のちには浜松医科大学付属病院院長までっとめました。
昭和59年に文化勲章(ぶんかくんしょう)を授与(じゅよ)され、二本松市の名誉(めいよ)市民でもありました。