先人の偉業 戒石銘の精神に学ぶ -001/024page

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1. 二本松市の歴史

  縄文時代から、二本松地方には人々が住み、集落を営んでいたことが、安達太良山麓から発見された堅穴式住居跡(原瀬上原遺跡・塩沢上原遺跡)から知ることができます。

 五世紀頃には、東北地方に陸奥国がおかれ、六世紀になると、陸奥国が信夫・阿尺(あさか)・石背(いわしろ)・白河・会津の五郡に分けられたと伝えられています。また「延喜式」によると、延喜六年(九〇六年)には安積郡が二つに分けられ、安積郡と安達郡になったことがしるされています。このことは、郡山台遺跡(二本松市杉田)の発掘謂査からも、安達郡の郡役所「郡衛(ぐんが)」が置かれていたこと、米を蓄える倉庫群(正倉)が配置されていたことがわかります。

 十一世紀に入ると、源義家父子が安倍氏を討った歴史があり、八幡太郎義家に関する伝説も多く語り継がれています。

 十二世紀には、源氏と平氏が相争った時代ですが、この時源頼朝を助け、鎌倉幕府の創立に貢献し西安達郡(二本松地方)の領地を賜ったのが武州足立郡(ぶしゅうあだちぐん)の足立氏(あだちし)であり、同音により、足立を安達に改めたともいわれています。

 南北朝の時代(一三四〇年)になると、東北地方に奥州探題をおいて鎌倉府を牽制しようということから、両朝の武士達が入り乱れて戦いに明け暮れるようになりました。その頃、足利尊氏の一族で学問武芸ともにすぐれた名将畠山高国が、北朝(尊氏)から奥州管領に任ぜられ、二本松地方を治めることになり、田地ケ岡(殿地ケ岡ともいう、現在の塩沢小学校のある小高い丘)に館を築きました。また同時に、北朝から吉良貞家も奥州管領に任ぜられ、北朝=足利方の奥州支配の体制が整いました。

 しかしその後、足利尊氏・直義兄弟の不仲の影響をうけて、奥州管領の二人も対立し、観応二年(一三五一年)二月、畠山高国とその子国氏は、吉良氏によって自刃においこまれました。国氏の子国詮はかろうじて脱出し、安達太良山の奥にひそんだのち安達郡二本松におちつき、白旗ケ峯(今の霞ケ城の頂上)に城を移し、二本松城(霧ケ城)と称しました。畠山氏は二本松城主として、十一代にわたり二本松を支配しました。隣国では当時伊達氏が自分の領地を広げようと、畠山氏に何度も戦いをしか


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