先人の偉業 戒石銘の精神に学ぶ -002/024page

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けてきました。天正十三年(一五八五年)、ついに畠山義継(十一代城主)は伊達政宗に服属を約束しました。その時、義継は、服属のことを政宗に斡旋してくれた礼と称して、政宗の父輝宗を塩松の宮森城(岩代町・小浜)に訪問し、その帰り際、義継は輝宗をとらえました。それをききつけた政宗は、阿武隈河畔の粟(あわ)の須(す)(二本松・平石)で、父輝宗もろとも義継を銃撃し、翌天正十四年四月、二本松城を開城させることになったのです。その後、豊臣秀吉の奥羽仕置により、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、松下氏、加藤氏と、この地方を治めた領主が変わりました。

 徳川時代になり、寛永二十年(一六四三年)丹羽三代目、丹羽光重が白河城より移り住み、初代二本松藩主となり、ニニ六年間、丹羽氏の時代が続きました。この時、今の城の下の方の石垣や箕輪門が築かれ、武家屋敷や今の町なみが造られ、現在の二本松市の原形がてきあがったのです。また丹羽氏は、農耕地や水利の確保のため二合田用水を完成させるなど、産業の振興に努めました。領地は、安達、安積一一〇ケ村、一〇万七〇〇石、ほかに田村二万石で、福島県中通りの中央部分の大部分でした。

 慶応四年(一八六八年)戊辰の役で、二本松藩は、奥羽列藩同盟のため、西軍(薩摩・長州)と戦い、同年七月二十七日・総攻撃を受け、主力部隊が白河方面の戦闘に出動している状況のなか、ほとんどが老人と少年で防戦したが力およばず、悲劇的な終末のうちに、七月二十九日、二本松霞ケ城は落城してしまい、丹羽氏の政治に終わりを告げました。 明治四年(一八七二年)、廃藩置県により、二本松県となりましたが、すぐに福島県に統合されました。しかし、二本松の町は、安達地方の中心として繁栄してきました。

 昭和三十年(一九五五年)、旧二本松町、塩沢村、岳下村、杉田村、石井村、大平村と油井村の一部が合併して、大きな二本松町となりました。さらに、昭和三十三年(一九五八年)十月には、二本松市となり、ますます安達地方の中核都市として、長い歴史と観光のまちとして、大きく発展し続けています。


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