先人の偉業 戒石銘の精神に学ぶ -003/024page

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2. 旧二本松藩戒石銘碑の意味

 霞ケ城址は、福島県二本松市にあり、江戸時代・寛永二十年(一六四三年)から明治元年(一八六八年)までのニニ○有余年にわたり、二本松藩・丹羽(にわ)氏一〇万七〇〇石の居城でした。城の東手には藩庁があって、藩士達の通用門がありました。

 その藩庁前に露出していた長さ約八.五メートル、最大幅約五メートルの白然石(花崗岩)の大石に刻まれたのが"戒石銘(かいせきめい)〃、てす。

 五代藩主丹羽高寛(にはたかひろ)公が、藩の儒学者岩井田昨非(いわいださくひ)の進言により、藩士の戒めとするために、命じて刻ませたものとされ、寛延二年(一七四九年)三月一夜にして完成しました。戒石銘は、露出面の縦一.〇三メートル、横一.八二メートルの間に、四句十六字を刻みこんだものです。









 

 



















































































































       

 

 













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 つまり、「お前(武士)の俸給は、人民があぶらして働いたたまものより得ているのである。お前は人民に感謝し、そしていたわらねばならない。もしこの気持を忘れて弱い人民達を虐げたりすると、きっと天罰があろうぞ。」と解釈されています。

 藩政改革と網紀粛正の指針とされたこの戒石銘が、長年にわたり二本松藩士の士風を奮い起こしたことは言うまでもありま


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