先人の偉業 戒石銘の精神に学ぶ -004/024page

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せん。例えば、戊辰(ぼしん)戦争において、藩の子弟が二本松少年隊として新政府軍に対して奮戦したこと、また、重臣の多くが城を枕に自刃(じじん)して武士の模範を示したこともまた、この戒石銘があったからこそとも考えられます。

 昭和十年(一九三五年)十二月二十四日、教育資料として、また、行政の規範として価値の高いものであるため、国史跡「旧二本松藩戒石銘」として指定されました。

3. 戒石銘のルーツ(起源)

 戒石銘の起源は、中国にあるとされています。その研究の第一人者として、服部宇之吉(はっとりうのきち)博士が挙げられます。博士は二本松藩士の家に生まれ、のち漢学の研究に傾注し、東京帝国大学(東京大学)教授となられた方です。わが国の東洋哲学研究の権威者で、「文学博士服部宇之吉先生述 福島県安達郡二本松町所在 戒石銘説明書」(昭和十一年十一月三日刊福島県教育安達部会)に、その起源を詳細に述べています。

 戒石銘の原典は、中国の五代時代、後蜀(こうしよく)の君主・孟昶(もうちょう)が九三五年に作った、二十四句九十六字の「戒諭辞(かいゆじ)」(戒(いまし)め諭(さと)すことば)に求められます。

 さらに、戒石銘の起源は、北栄時代の君主・太宗が九八三年四月に、この戒諭辞から四句十六字を抜出し、戒石銘として州県の官吏に示したことが記されています。また、南宋時代の君主・高宗は、その戒石銘を一一三ニ年六月に、黄庭堅(こうていけん)(太宗御製の戒石銘を揮毫(きこう)した名筆家)の書体で石に刻ませ州県に領布し官吏の戒めとして用いられたことも記されています。このことから、中国では、日本の平安時代中頃に戒石銘が誕生し、平安時代末頃には広く各州県の門前に、戒石銘碑が建てられたことがわかつます。

 戒石銘の原点とされる、孟昶の作"戒諭辞"の全文は次のとおりです。


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