先人の偉業 戒石銘の精神に学ぶ -006/024page

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4. 戒石銘碑にかかわりのある人々

(1) 丹 羽 高 寛(にわたかひろ)公(一七〇八 〜 一七六九年)

 五代藩主高寛の生家の祖である丹羽長紹(にわながつぐ)は、丹羽長秀(長張国の人で織田信長の重臣として仕え、豊臣秀吉とともに明智光秀を倒し、のち秀吉に重んじられ越前(福井県)の百三十三万石の城主となりました)の弟で丹羽家から分家し、子孫は代々旗本で、高寛の祖父の丹羽長守は江戸町奉行でありました。その子長道の長男として町奉行役宅で一七〇八年に生まれた江戸っ子でありました。

 そのためか、趣味は書画・能・茶道とも堪能で文芸面でも非凡さを示しました。四代藩主秀延公の逝去に際し、養子となり家督を相続し、享保十三年(一七二八年)に二本松藩五代藩主となりました。

 高寛公は、民を愛し、神を敬う名君だったといわれております。享保十九年に江戸の儒学者、岩井田昨非を登用し、軍制、教育をはじめ全般にわたる藩制改革を指示しました。高寛は延享二年(一七四五年)三十八歳の若さて引退し、六代高庸(たかつね)に代をゆずったが、戒石銘の刻名は高寛の口添えによるものだろうといわれています。

 明和六年(一七六九年)六月二十九日六十二歳でなくなられました。法名「天嶽院殿豁如了然大居士(てんがくえんでんかつによりようぜんだいこじ)」、丹羽家の菩提寺である市内大隣寺に葬られています。

丹羽高寛公肖像
丹羽高寛公肖像


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