先人の偉業 戒石銘の精神に学ぶ -007/024page

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(2) 岩井田(いわいだ) 昨 非(さくひ)(一六九九 〜 一七五九年)

 昨非は、下野国(しもつけのくに)(栃木県)芳賀郡に一六九九年に生まれました。のち江戸にでて、幕府の儒臣である桂山彩厳(かつらやまさいがん)に学び、儒学をきわめました。当時は享保年間の全国的な経済不況に襲われた時でもありました。二本松藩も例外ではありません。また藩政改革にせまられていた時てもありました。

 時たまたま文武にすぐれた丹羽忠亮(ただすけ)が藩士の信望を得て三十三歳の若さて家老に抜擢されました。(高寛が藩主として江戸から迎えられる前年)。忠亮は彩厳とは非常に仲がよかったといわれています。藩政の重責をになった忠亮に彩厳は門人の岩井田昨非をすいせんしました。そして享保十九年(一七三四年)に藩主高寛は昨非を召し抱え、藩政改革にあたらせました。

 昨非は藩主、家老の後楯を背景にして、刑法の改正、藩主行列の簡素化、藩士の教育などの任にあたりました。

 昨非の改革には強引さも見られる面もあり、したがって批判される面も多くあったようです。その上、昨非の後楯となっていた忠亮が没し、藩主の高寛が引退するに至って、昨非の強引な施策に反対する者が表面化し、批判がむけられるに及びました。

 これらを封じようとして、寛延二年(一七四九年)に"戒石銘〃を刻ませ、藩士の戒めとしました。しかし、昨非への枇判は強く、穏退せざるを得なくなってしまいました。穏退後、一七五九年六十歳で病死しました。現在昨非の魂は二本松市竹田台運寺に深く眠っています。

岩井田昨非墓碑
岩井田昨非墓碑


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