先人の偉業 戒石銘の精神に学ぶ -008/024page

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(3) 服 部(はっとり)宇之吉(うのきち)(一八六七 〜 一九三九年)

 慶応三年(一八六七年)二本松藩士の三男として生まれました。幼少にして両親になくなられたので、父の弟夫婦に育てられました。明治六年(一八七三年)に養父が東京にある旧二本松藩邸に勤めることになったので、養母とともに上京し、貧しいながらも実直勤勉な養父母のお陰で、勉学への第一歩をふみだすことがてきました。

 宇之吉が中国哲学(人の生き方などの学問)の第一人者といわれるまでの足あとをたどってみると、上京後、さっそく同区内の漢学者の塾に通いはじめ、明治九年麻布小学校に入学し、四年で卒業、今度は漢字、英語、数学の三つの塾に通いました。
明治十四年には共立学校(東京開成中学校の前身)に入り、明治十六年には大学予備門に入学、さらに、明治二十年に東京帝国大学(現在の東京大学)に入学しました。この帝国大学において、宇之吉の漢学者、教育者そして中国哲学の権威者としての基礎が構築されました。大学卒業後文部省に入るがすぐやめてしまい、明治二十四年第三高等学校(旧制三高の前身)教授となりました。その後東京高等師範の教授を経て、明治三十二年から漢学研究のため中国とドイツに留学し、帰国後東京帝国大学教授に迎えられ、文学博士号をうけております。明治三十年には中国の北京大学教授、大正四年にはハーバード大学の教授として教壇にたたれたこともあります
このような教育活動を続ける中で数多くの業績を残されました。

 著書、論文は数えきれないほどありますが、特に「詳解漢和大辞典」は小柳司気太(しきた)という人と二人で書いた辞書で多くの人々に利用されております。 "戒石銘〃についても、東洋哲学研究の権威者である宇之吉博士が、その研究の第一人者としてあげられます。

服部 宇之吉
服部 宇之吉


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