先人の偉業 戒石銘の精神に学ぶ -009/024page

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5. 戒石銘がつくられた背景

二本松藩と戒石銘

 三代将軍家光の命令により、丹羽光重(にわみつしげ)が二本松領主として二本松にやって来たのが寛永二十年(一六四三)七月四日のことです。ここに二本松藩十万七百石が成立したのです。

 丹羽家の先祖は織田信長の重臣であり、信長亡き後は秀吉にも重んじられ、越前北の庄の城主として百二十万石の領主となった丹羽長秀(ながひで)でした。

 しかし、二代目長重は、関ケ原の戦い後領地を没収され浪々の身となります。やがて常陸国(茨城県)古渡(ふつと)一万石の大名に取り立てられ、棚倉、白河へと領地替え、その子光重(みつしげ)の代に二本松へ移されたのです。

 丹羽家は名家てしたが、江戸幕府によって上手につぶされたり、解体させられたりして小大名化していきました。このような苦しみを味わったこともあって、二本松初代藩主光重は「家憲」(藩の戒め)の中で、「上は公命を尊重し、下は士民を仁恤(じんじゅつ)せよ」(上は幕府の命令を尊重し、藩士や領民に対しては、情けをかけた政治を行うように)と書き残しています。

 京都ぎおん祭りをまねたちょうちん祭りを行い、領民との和を考えたのも、光重のこうした思いがあってのことでしょう。
また歴代の藩主もこの家憲を藩政の方針とし、今日の扶養手当や養老手当などのような福祉制度をとっています。戒石銘もこのような藩の方針の中で生まれたものと思われます。

 領地替えや少しの落ち度で、いつ領地を没収され取りつぶされるかわからない時代に、政治家としては、注意深く政治をとったものと思われます。


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