先人の偉業 戒石銘の精神に学ぶ -010/024page

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 さて江戸幕府になって戦国時代の武断政治は終り、学問によって政治が行われるようになりました。しかもその学問は儒学(朱子学)です。二本松藩の政治も学者の手に移っていきました。

 二本松藩の政治の基礎が固まったのは、元禄時代の頃です。しかし享保年間に入ると、相つぐ凶作ききんや貨幣経済のひずみが出て来、藩の財政はきびしくなっていきました。藩の財政がきびしくなれば、農民の税の負担もふえてきます。

 享保十四年(一七二九)に隣郡の信夫郡の農民らが二本松城下に強訴するという事件も起きました。

 その上、享保十五年(一七三〇)には、日光の修築工事を行うようにと幕府の命令が出されました。この修築費用を出すのは藩にとっては、大変な物入りだったことでしょう。俸給をけずられる藩士達も出ました。こういう中で藩士達の生活はより苦しくなり、藩士の中には自分の名も満足に書けない者達が多かったということですし、武士道も地に落ちていきました。

                                                このような時、文武に優れ人望があった丹羽忠亮(ただすけ)が家老に抜擢されたのです。この忠亮に友人であった幕府の儒官、桂山彩巌(かつらやまさいがん)が弟子の岩井田昨非(さくひ)を推薦したこともあり、昨非は二本松藩五代目の藩主、高寛(たかひろ)公によって二本松藩の儒者として一六〇石で召し抱えられました。

 しかし丹羽忠亮は藩政改革を志し、日夜奔走している間に心身共に使い果たし、志なかばにして病に倒れ、亡くなってしまいました。

 岩井田昨非については、二本松藩史に「享保年中高寛、昨非の賢を開いて儒臣として召し抱えた、学校、刑法、士制、農制など昨非の意見によったものが多い。」と記されています。

 江戸育ちの藩主、高寛は、文化的にはるかに遅れていた二本松藩を財政改革と同時に文化的にもっと進んだ地にしようという気持ちもあり、昨非に期待することも大きかったのではないかと思われます。また昨非も忠亮の藩政改革の遺志は無駄にはできない、必らず実現しなければならないと思ったにちがいありません。そのためには人心を変える必要がある。昨非は儒教


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