先人の偉業 戒石銘の精神に学ぶ -011/024page

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の精神にもとづき、藩士の文武修学の義務化、綱紀粛正、納税の義務化、人材の登用など、今までの慣習を破って思いきって改革を進めていったようです。
「武芸は武士の本分、儒学は弱々しい人間のやることだ。」と考えていた藩士達にとっては、昨非の半強制的な学問のおしつけに反発を感じた者もいたようです。あげくの果ては脱藩する者も出たそうですが、昨非は一向に気にせず学問を奨励したようです。そうまでしなければ、人心は変らないと見たのでしょう。

 二本松の藩校、敬学館が設立されたのが文化十四年(一八一七)、その半世紀以上も前に学問を奨励したことを思えば、昨非は先見の明があったということができます。学問に限らずすべての改革を強引に進める昨非に反発する藩士も後をたたなかったそうです。

 昨非の良き理解者であった家老、丹波忠亮の死と、病弱のため、藩主高寛が藩主の座を退きその子、高庸(たかつね)に譲ると、反対派の動きはより活発化していきました。このような抵抗に対し、昨非は綱紀粛正のため、戒石銘を刻ませました。
「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺」 丹羽家初代からの政治方針を受けて「武士達の俸給は領内の農民達の汗と脂(あぶら)ではたらいたもののたまものである。農民から年貢をしぼりとるなどしいたげることはできるが、天までだますことはできない。」
という儒教の精神を藩士達にうえつけようとしたものです。

 藩士達が通る通用門地点にあった巨大な花崗岩の天然石に戒石銘は刻まれました。毎日ここを通る藩士達はいやが上にもこの碑を見なければならなかったはずです。彼等は登城する時にどういうふうに読みとっていたものか、今は知るよしもありませんが、きっと意識して通ったことでしょう。

 時代は藩主高庸の時代にはなっていましたが、実際は高寛の命によって刻まれたものです。戒石銘のルーツは中国が祖で、それを岩井田昨非がとりあげたものとされています。この戒石銘が刻まれたのが寛延二年(一七四九)東北地方全域が凶作で、五、六分作の不作であり、人心も動揺していました。二本松藩史によると、十万石領下の百姓が騒動を引き起こし、一時は大


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