朝河貫一その生涯と業績に学ぶ -001/025page

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1 生いたち

 1867(慶応3)年12月9日,王政復古の大号令で成立した明治新政府は,その後徳川慶喜(とくがわよしのぶ)追討と,佐幕諸藩鎮圧のための戊辰(ぼしん)戦争を推し進めていきました。この戊辰戦争の直前に会津藩とともに奥羽越列藩同盟にくみした二本松藩は,薩長(新政府軍)の大軍と真っ向から戦うことになりました。怒涛(どとう)のように押し寄せてきた新政府軍に対し,奮闘空しく,1868(慶応4)年7月29日二本松城は遂に落城,丹羽(にわ)光重(みつしげ)入府以来,225年で終止符となりました。戊辰戦争のあと,明治新政府がとった敗者への処分は厳しいものがあり,敗戦二本松城下は秋風落魄(しゅうふうらくはく)として,実にみじめなものでした。『二本松藩史』には「家中の邸宅ことごとく灰尽(かいじん)に帰したので,その家族は領内各村に配置し,人ごとに米7合を給す」と記録されています。旧藩士の大部分は旧藩公が急造した長屋に雨露をしのぎ,傘張り内職などをなりわいとして,この激動期に堪えていきました。

 このような窮迫期のさなかの1873(明治6)年12月20日,父正澄(まさずみ),母ウタのもと,朝河貫一(あさかわかんいち)は未熟で虚弱な赤ん坊として,二本松の地に生まれました。貫一の父正澄は,旧二本松藩士宗形治太夫(むなかたじだゆう)の次男で,25歳の時,2女をもつウタと結婚し,婿として朝河家に入ることになりました。母ウタは,信州田野口藩士松浦竹之進(まつうらたけのしん)の長女として育ち,二本松藩の砲術師の家柄であった朝河家に嫁ぎました。しかし,先夫照成(てるなり)が天狗党討伐の際戦死し,未亡人となり,二本松城炎上とともに路頭に迷うほかなかったところ,正澄との縁談があったわけです。この正澄は,18歳の時早くも小野派一刀流の目録と薙刀(なぎなた)の極意(ごくい)を伝授(でんじゅ)されており,また,漢学・国学を修めたぱかりでなく,槍術(そうじゅつ)や馬術・砲術・柔術についても励み,若き日のはげしい求道心を物語っています。このような父正澄が,『論語』の「吾ガ道,一ヲ以テ之ヲ貫ク」という言葉から,その子を貫一と命名し,ここに偉人朝河貫一が謎生することになりました。

 貫一が生まれた翌年,教員資格を獲得した正澄が伊達郡立子山村(現福島市)の小学校の校長格の教員として迎えられることになり,一家は二本松を離れ立子山村に移り住むことになりました。しかし,貫一の発育は遅々として進まず,誕生日が過ぎても歩行の模様がないばかりか,片言も発することがありませんでした。こうして貫一が二度目の誕生日を迎えたころ,母ウタは貫一への憂いを残しながら,そ


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