朝河貫一その生涯と業績に学ぶ -002/025page

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の生涯を閉じました。その後しばらくは祖母が貫一の養育にあたっていましたが,正澄は梁川町(やながわまち)の神官関根政行(せきねまさゆき)の長女ヱヒを後妻に迎えました。

 貫一の新しい母となったヱヒは,慈愛に満ちた女性であり,貫一の言語機能の発育がひどく遅れていることを心配し,夫とカをあわせて,貫一に昼も夜も熱心に単語図や連語表によって発音の練習を繰り返させました。こうした苦心が報われ,貫一が4歳になるころには,身体も言葉も年齢にふさわしいまでになりました。このころの貫一が描いたとされる6頭の馬の落書きが残っていますが(天正寺客殿の白壁に現存),4歳そこそこの子が描いたものとはおもえないほどであり,貫一の才気の片鱗(へんりん)がうかがえます。さらに正澄は,5歳そこそこの貫一に近古史談・日本外史・四書五経などを教え始めました。

立子山天正寺全景
立子山天正寺全景

立子山天正寺の落書き(本堂外壁)
立子山天正寺の落書き(本堂外壁)

 立子山小学校に入学した貫一は,この父母の教育と貫一自身の努カによって,その英才ぶりを十分に発揮して,人々から「朝河天神」とよばれるほどであり,このあだ名は中学時代まで続くことになりました。また,伊達郡内の各小学校代表の学力比較試験が実施されたときには,きまって立子山小学校を代表して出席し,常に最優秀の成績をあげていました。

 貫一が立子山小学校で高等小学3級の課程を終えたとき,最終学年だけでも郡内の優秀な学校に進みたいという彼の希望で,川俣高等小学校に転校することになりました。転校を希望した大きな理由の一つは,この小学校には蒲生義一(がもうぎいち)という東京からきた英語の教師がいたからです。貫一は,彼から基礎的な英語教育を受け,このときから語学に対する興味が芽生えたと思われます。この川俣時代の終わりに,貫一は中学進学への希望を父に強く訴えるようになりました。正澄は,月給10円の


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