朝河貫一その生涯と業績に学ぶ -004/025page

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るため,学費免除など特別の取りあつかいを受ける生徒のこと)の制度ができるとすぐにその適用をうけました。彼の全科目の成績は,3年生の時1位と同点の2位になっただけで,他の学年では全て1位を占め,その平均点も他の学生を圧倒していました。ある年,彼は中学校の校友会誌に『記憶論』という外国の論文のほんやくを載せました。その論文は,記憶が学生のもっとも最重要事であると主張するものであり,毎日徹底した予習と復習をくり返してきた貫一にとっては,その論文が自分の気持ちのままに映し出されているものと考えたのかもしれません。彼はどんな時でも学習の日課をゆるめようとはしませんでした。中学校の教室では教師も生徒たちも,その知識と記憶カにはいつも驚かされていました。

 また,有名なエピソードも伝えられています。彼は英和辞典を毎日2ぺージずつ暗記しました。そして,暗記したぺージは1枚ずつ食ぺてしまったそうです。ある日,ついにカバーだけになってしまったので,それを校庭の西のすみの桜の木の根元にうめたのでした。貫一は友人たちに「辞書食い」というあだ名を付けられたほどでした。安積高校では,今でもその桜の木を「朝河桜」とよんで大切に育てています。

 勉学とは別に,貫一が中学校で育てた友情は,彼がアメリカに去ったあとも,さまざまな形で海をこえて長く交わされました。のちにイェール大学の教壇に立っていた時も,彼は中学校時代の記念写真を大切に持っていましたし,友人や先輩・後輩からの手紙も数多く残していました。そして彼自身もしばしば研究生活のようすを知らせたり,世界の情勢を分析した手紙を送ったりしていました。おたがいの友情は海をこえても交わされていたのでした。貫一自身,アメリカでの生活の中で,「ひとたび故郷のことを思いだせぱ,あれやこれやが次々と浮かんでくる」と語っています。

 1892(明治25)年3月24日,貫一は福島尋常中学校を首席で卒業しました。卒業式で彼は総代として答辞を読むことになりました。正面にすすみ出た彼の口もとからすらすらと流れ出たのは英語の演説でした。来賓のだれもがあっけにとられてしまいました。列席していた中学校のイギリス人教師ハリファックスは,その文章の見事さに感じ入って,「やがて世界はこの人を知るであろう」と語ったといわれています。


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