朝河貫一その生涯と業績に学ぶ -005/025page
朝河は中学時代に立子山に帰省するとよく,コックリさんに「いつごろ外国に行けるようになるのか」をうらなわせたほど,留学への希望は強いものがありました中学校を卒業した貫一は,アメリカ留学を志すようになり,その第一歩として東京専門学校(のちの早稲田大学)に進むことを決意しました。東京専門学校を選んだ理由は,資金難のため,苦学のためであり,そして何よりも3年で卒業できるためでした。3年で卒業できれば,それだけアメリカ留学のチャンスも早い時期におとずれると彼は考えたのでした。彼はこれ以上父に学費をたよることができず,自分で学費や生活費をかせぐことを決意し,1892(明治25)年11月に上京しました。資金が足りず,新学期に上京することができなかった彼は,編入試験を受けて文学科(現在の文学部)に途中入学しました。
学校では,坪内逍遥(つぼうちしょうよう)(シェイクスピアの翻訳などで有名な文学者)や,大西 祝(おおにしはじめ)などの講義を受け学業にはげみました。その一方,ほんやくの仕事,夜間の英語教師,雑誌の編集などのアルバイトをしてどうにか学費や生活費をまかなっていました。その間本郷教会の牧師で,当時わが国一流の思想家でもあった横井時雄(よこいときお)に出会い,キリスト教徒となったのでした。この横井との出会いがその後の貫一のアメリカでの留学生活に大きな影響をおよぽすことになりました。横井の友人にアメリカのダートマス大学の学長をしていたウイリアム・J・タッカーという人物がおり,