朝河貫一その生涯と業績に学ぶ -006/025page

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横井はアメリカに渡った際にタッカーに対し,貫一の才能と経済的な貧しさを語り,何とか留学の便をはかってほしいと頼んだのでした。タッカーこそ,のちに彼のアメリカでの研究生活のよき理解者となり,彼が終生の恩人として仰ぐことになる人でした。1895(明治28)年7月,貫一は東京専門学校文学科を首席で卒業しました。卒業論文は94点の評価を受け,総平均点も94点あまりという抜群の成績でした。

 貫一の夢である留学も実現しようとしていました。タッカーが,学費や舎費を免除するという厚意を示してくれたのです。しかし,留学はきまったものの,貧しい朝河には渡航費がなかったので,その捻出(ねんしゅつ)はけっしてなまやさしいものではなかったのです。小学校・中学校と同級であった川俣町の渡辺熊之助(わたなべくまのすけ)や同じ郷里の親友高橋春吉(たかはしはるきち)らに借金を依頼したりするなど多くの知りあいに頼みましたが期待がはずれ,彼の心はすっかり苦悶(くもん)にゆがめられていたようです。そうした中で,最終的に援助したのは,徳富蘇峰(とくとみそほう),大隈重信(おおくましげのぶ),勝海舟(かつかいしゅう),大西祝(おおにしはじめ)の尽カによるところが大きく,特に東京専門学校の恩師大西祝は,自分がドイツ留学に備えて貯えていた虎の子の中から,100円(今の貨弊価値にしてlOO万円位)を愛弟子(まなでし)のために提供してくれました。この人たちは,それだけに朝河の才能を高く評価していたのです。
 
 

3 渡米留学

 苦心の中にも旅費調達のめどがつき,1895(明治28)年12月7日朝河を乗せた船は横浜港を離れ,サンフランシスコをめざしました。22才の誕生日は船上で迎えました。背広だけは新調できたものの,夏服や礼服までは手が届かなかったので,礼式に備えて羽織袴(はおりはかま),白足袋などを携(たずさ)えて行きました。12月26日にサンフランシスコに上陸,そのあと大陸横断鉄道でニューヨークに行き,翌年正月ハノーバーの町に到着しました。めざすダートマス大学はこの町にあったのです。

 アメリカにおける学問の第一歩をふみだすぺく,ただちにダートマス大学の一年生に編入されました(学生総数当時350名,現在約3000名)。彼の授業料と寄宿寮の部屋代の免除は前述のごとく,タッカー学長と横井牧師との間に確約されていましたが,小遣いなどの個人的な支出は自分のカでまかなわなければならなかったので,ホテルの給仕や皿洗いなどをして収入を得ました。


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