朝河貫一その生涯と業績に学ぶ -008/025page

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とを知っているから,一生をとおして学問を続けることができる。例えていえば,日本人は滝のようであり,米国人は山のようである。アメリカにあっては,生涯を通じての学問と人格の円満な発達を大切にする。日本国内では不敬を最も厳しく責めるのに対し,米国では個人の円満な成長を妨げる者を最も厳しく責める。

 また,日本人と米国人の感情の表現をくらぺると,日本人は強烈な義理心の民であり,米国人は鮮烈な感情の民である。日本人は何ごとにおいても義理に原則を求めるが,米国人は自由で屈託(くったく)なく,至上の理想に精進する。

 以上が彼の寄稿文のあらましです。このように,朝河は二つの国家・社会を比較洞察(どうさつ)することにすぐれておりました。やがて,日本史の考察がより客観的であるためには,どうしても他の国家との比較が重要であると考えるようになり,二つの国家・社会についての比較法制史の開拓にすすもうという意志を固めるようになっていったのです。

 卒業も近づいた1899(明治32)年,タッカー学長は朝河に重要な提案をしました。歴史科の中に東洋と西洋の関係を研究する科を設けるので,教授をゆだねたい,そのため数年間最良の大学で研究してもらいたい,もちろん学費はダートマス大学より支出するというものだったのです。朝河は非常に感動しました。

 朝河はその旨両親へ手紙を送りました。世界のための学問に心ひかれてゆくのはどうか「宿縁(しゅくえん)」とおぼしめしくださいという内容のものでありました。両親は息子の手紙に大きな衝撃を受けたことは想像できます。両親は約束通り5年たてば帰国するであろうと指おり数えていたのです。しかし,両親は留学の延長を認めてくれたのです。お互いの心中痛いほどわかります。朝河は親戚・先輩・友人たちの意見も求めていますが,みな激励しており,勇気づけられています。

 1899(明治32)年9月,イェール大学の大学院歴史学科に入学しました。ここでも優秀な成績をとり,頭角をあらわしていったのです。“The Early Institutional Life in Japan : A Study in the Reform of 645 A.D.”(『大化の改新の研究』)により,学位授与が決定したのは朝河28歳のときでした。この研究は高い評価をうけ,彼はもっともすぐれた東洋解釈者として迎えられたのです。

 1903(明治36)年、朝河の継母ヱヒが43歳で他界しましたが,母の死に対し帰国することはできませんでした。母の死を悲しむ父からの手紙によれば,母は村民から親しまれ,母の裁縫の教え子たちは声をあげて泣きだす者が多かったと記されてお


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