朝河貫一その生涯と業績に学ぶ -009/025page

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り,すばらしいおかあさんだったのです。

 翌年父は二本松にもどることになり,立子山小学校を退任するときは,花火で送られるなど本当に惜しまれながらの退任でした。

 1904(明治37)年に日露戦争がはじまりました。この年朝河は“The Russo-Japanese Conflict”(『日露紛争』)という本を英文で書き,日本人にはよく知られていませんが,アメリカとイギリスで発売されるや政界,知識界の間に大きな反響をまきおこしました。この本をとおして日露戦争における日本の正義を英米国民に訴えたのです。このとき,日本では乃木希典(のぎまれすけ)がひきいる第三軍が203高地を攻撃中であり,ロシアのバルチック艦隊が北アフリカまで南下していました。

 目前の戦争に対し,開戦にいたるまでの国際関係の推移と経済の発達を客観的に学問的に研究し,両国の衝突の原因を明らかにした本としては,国際外交史としての学術的な成果という点で今もその価値は高いと評価されています。朝河30歳のときでした。この本を書いた目的は,開戦当時にあっては欧米人の日本に対する感情がゆれ動いて不安定であったので,少しでも正しい見解が生まれることを願ったからだといっています。さらに日本は自国の存亡のために宣戦したのだということ,日本の国運を救う道は,そのまま清国の主権を尊重し,満州・韓国における機会均等につながるということを強調したかったのだと語っています。

 この本が出版されてから,朝河はたびたび日露戦争についての講演を頼まれたり討論会に招かれたりしました。その中で朝河は,満州がロシアの支配下におかれるような結果が生まれてはならないのだということを訴えました。

 1905(明治38)年アメリカのポーツマスで,アメリカ大統領T・ローズベルトの斡旋(あっせん)で,日露講和会議が開かれました。朝河はこのとき,会議のオブザーバーの資格を日本政府から与えられていました。実は,前年イェール大学で開かれた日露講和に関するシンポジウムで朝河の陰の活躍があったのです。主席全権小村寿太郎(こむらじゅたろう)がポーツマス会議にたずさえてきた日本側の交渉案は,全面的にイェールシンポジウムがだした条件を基調としたものだったのです。例えば,賠償については要求すぺきでないなどです。朝河はこの時点ではダートマス大学講師であり,まだイェール大学の教職者ではなかったが,日露戦争を学術的に論じさせれば彼の右にでるものはなかったのです。1905(明治38)年2月に金子堅太郎(かねこけんたろう)(T・ローズベルト大統領らと接触しながらアメリカの調停を引きだすぺく努カしていた使節)が大統領への


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