朝河貫一その生涯と業績に学ぶ -010/025page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

手紙で,講和条約はイェール大学の東洋事情に通じた数名の人が会合を開いたうえ,共通の意見を出したものであると説明しているところからして,この数名の中に朝河が入っていたと思われます。さらにこのシンポジウム開催の発想をいだき,演出したのも朝河であったようです。このような背景の中でポーツマス条約が成立しました。
 
 

4 結婚・帰国

 朝河が大学院時代に知りあったミリアム・J・C・ディングウォールと教会で結婚式をあげたのは1905(明治38)年10月13日でした。朝河31歳,ミリアム26歳のときです。彼女の明るく温かい性格が朝河の心をひきつけたようです。ところが,朝河の父は日本女性との縁談をすすめているのです。これについては,自分には妻を扶養する経済的能カがない等を理由にことわっています。ミリアムとの結婚は,当初は父の心に受け入れられなかったようですが,いろんな曲折(きょくせつ)を経たのちに,駐米大使青木周蔵(あおきしゅうぞう)夫妻の媒酌により神式で結婚式をあげ,ミリアムは朝河貫一の妻として,朝河家へ入籍されることになりました。

 1906(明治39)年2月1日,朝河はシアトル港をあとにしました。前年12月27日に父にあてて帰国する旨を述ぺています。だれよりも帰国を心待ちにしていたのは父であり,その父からの手紙にも日本永住をしきりに望む気持が述べられています。妻を失い,教職を離れて二本松に移り住んで以来1人ぐらしの淋(さび)しさに堪えかねるようになっていたのでしょう。しかし,朝河は現在いかに重要な研究を進めているか,いかに期待されているかを手紙で説明し,父の希望にそむかなければならない現在の自分の立場を訴えています。朝河が横浜港に着いた時,彼の目にいきなりとびこんできたのは息子に一刻も早く会いたい一心で二本松から迎えにきていた父の姿でした。

 帰国後,朝河は二本松と東京を忙がしく往来しました。その間多くの要人とも接触しなければなりませんでした。父に急変がおきたのは1906(明治39)年9月20日でした。にわかに腸捻転(ちょうねんてん)におそわれ,62歳でこの世を去ったのです。朝河は菩提寺の真行寺で葬儀をすませ,二本松の家をたたみ,東京での忙しい生活に入っていくのです。

 朝河が帰国した大きな目的の一つに図書収集がありました。アメリカ国内には日


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は二本松市教育委員会に帰属します。
二本松市教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。