朝河貫一その生涯と業績に学ぶ -011/025page

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本関係の図書や資料が乏しく,いかなる分野の研究をおこなうにしても十分でないと歎(なげ)いていたのです。そのために,朝河はイェール大学図書館・米国議会図書館から正式な依頼をうけるとともに,日本では多くの要人に図書収集の助カをお願いしているのです。図書収集にそそいだ朝河の熱意が,日米の文化交流の上からも大きな足跡を残しました。1907(明治40)年8月7日再び渡米しました。

パスボート
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妻ミリアム
妻ミリアム

 

5 イェールの教壇,妻の死

 1907(明治40)年の新学期から,すでに決まっていたイェール大学での講義を始めました。担当は「日本文化史」であり,そのかたわらイェール大学図書館の「東アジアコレクション」の管理者として国際学術交流のうえで重要な役割を演じました。そしてこの頃,日本文唯一の著書『日本の禍機(かき)』を執筆し,実業之日本社から刊行しています。この本の中で彼は日露戦争後の日本の強権的なアジア外交をアメリカ国民が批判していることを伝え,この状態が続けば日本はアジア諸国民の嫌われものとなり欧米諸国から裏切り者と非難され世界の中で孤立し,破局を迎えなければならなくなるだろうと警告しました。そこで彼は,日本国民が新しい世界情勢に目覚め,中国をはじめとするアジア諸民族の主権を尊重し欧米に対しては国際信義をもって交わるところの「新外交」を進めるよう警告を発しました。しかし彼の情熱にあふれる警告も日本外交の方向を変えることはできず,日本は韓国併合を強行し,朝鮮の完全植民地化の道を歩み,中国への侵略を拡大していったのでした。


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