朝河貫一その生涯と業績に学ぶ -012/025page

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1910(明治43)年彼は助教授(assistant professor)に昇進し,「日本文明史」や「東洋近代史」の講義を行いました。明治40年代の彼は,日欧比較の目的に立って欧州中世史の研究に情熱を傾けており,欧州へ研究をもかねて再度渡っています。1930(昭和5)年に彼は準教授(associate professor)に昇進し,1937(昭和12)年には教授(professor)となりましたが,これは米国一流大学において日本人として初めてのことでありました。彼はイェール大学で35年間の教壇生活を送りましたが,助教授時代は契約任期が3年間でありその間に実績が上がらないと自動的にその座を追われる,というアメリカにおける短期契約方式の適用は,後に彼が「三年間の地獄」と告白しているように生やさしいものではなかったのです。しかし準教授に昇進してからは身分が安定しました。

イエール大学全景
イエール大学全景

 1913(大正2)年2月4日,彼に突然の悲劇が襲いました。愛妻のミリアム・J・C・ディングウォール(日本名「美里安」)が亡くなったのです。彼女はかねて病弱な面があり,なおバセドー氏病の気もありそれが悪化しました。そこでニューへーブン市の療養所で手術をしましたが,その結果が悪く息を引き取ったのでした。ミリアムは明るく,温かい性格の持ち主であり,異国に一人ある彼にとって心の支えでした。日本からの客が訪れた時,幸福そうに愛妻を紹介することの多かった彼にとって,衝撃的な出来事でした。二人の間に子供はなく彼はこの後,生涯妻を迎えず独身を通しました。1917(大正6)年再び日本に帰国したときの様子を伝える文


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