朝河貫一その生涯と業績に学ぶ -013/025page

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章からも彼の妻を失った哀しみの深さがうかがえます。「…当時博士は,藤原時代の荘園制度についての研究に没頭しておられた。その時の博士の印象は,場所ながら,季節ながら強く迫るものがあった。何の飾り気もなく,狭いに関わらず妙にがらんとしていて,薄暗い電灯のかさがつられた下に,博士は,ぽつねんと座っておられた。言われる言葉もニューへーブン時代と異なり,いぶしの加わったような感銘を受けた。ひたむきな学究の徒として終始した人であるだけに,夫人を亡くしたことがどれだけ心の痛手になったことやら,私のような者にもしかるぺき,夫人の心当たりがあるなら,アメリカヘ連れて帰りたいと意向をもらし,〔坪内〕逍遥にも頼んだことと察せられるが,結局好配が得られず孤独の生涯を閉じられた。……」(S24.1.10『福島民報』坪内士行の文)

 1917(大正6)年にイェール大学から日本留学を命ぜられ,1919(大正8)年9月までの2年余り東京帝国大学の史料編纂所(へんさんじょ)に籍を置き日本とヨーロッパの封建制度を比較するために,日本における封建的土地所有関係を研究することに専心しました。「東寺百合文書」「東大寺文書」等の研究を行い,さらに1919年5月から7月までは,鹿児島県薩摩郡入来(いりき)村の「入来院文書(いりきいんもんじょ)」の調査研究に集中しました。この資料は12世紀から17世紀にかけての500年もの長期に渡るものであり,日本の封建社会の構造を解き明かすのに最適であると彼が見抜いていたからです。1919(大正8)年10月にイェール大学に戻った彼は早速“The Documents of Iriki ; illustrative of the development of the feudal institutions of Japan”(『入来文書』)のまとめにとりかかり,編纂(へんさん)を始めてから実に1O年後の1929(昭和4)年春,ようやく『入来文書』が完成しイェール,オックスフォード両大学の出版会から刊行されました。内容は古文書の解読と英文への翻訳,そして日欧封建制の違いを訳注(やくちゅう)によって示すというものでした。この大著は日本の封建時代の政治的変遷と社会構造の本質を明らかにするものとして画期的な意義を持ち,彼の比較法制度史家としての名声を世界的に高めることとなりました。そして母校のダートマス大学からは文学博士の名誉学位が贈られました。

 『入来文書』の整理をしていた彼に,研究室を飛び出して奔走(ほんそう)しなければならない事態が,意外な方面からおきました。1923(大正12)年9月の関東大震災によって東京帝国大学図書館蔵書70万冊が焼失したのです。彼の実行カと系統的な図書収集能カとアメリカ国内において彼が持っている影響カを東京帝国大学図書館長が見


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