朝河貫一その生涯と業績に学ぶ -014/025page

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込んで図書収集の依頼があり,東京帝国大学図書館のために東奔西走(とうほんせいそう)する労を惜しまず贈書の斡旋を行いました。今日,東京帝国大学図書館の洋書の中にアメリカからの寄贈本がかなり含まれているのは,彼のこのときの奔走によるものです。

 1937(昭和12)年彼はイェール大学教授に昇進します。1941(昭和16)年,太平洋戦争勃発後も少しの拘束も受けず講義と研究に没頭できるよう米国もイェール大学も敵国の巨人に対して温情を贈り,大学院での講義と研究を続けることができました。

タッカー教授夫人にあてた朝河のサイン
タッカー教授夫人にあてた朝河のサイン

(タッカー教授夫人にあてた朝河のサイン)
(タッカー教授夫人にあてた朝河のサイン)

入来文書背表紙
入来文書背表紙

 

6 日米開戦,敗戦

 1931(昭和6)年9月18日,満州(現中華人民共和国の東北地方)奉天郊外で起きた鉄道爆破事件は「満州事変」として軍部の手により拡大され,戦火は,中国各地に広がっていきました。1932(昭和7)年,「満州国」建国による中国政府・民衆と日本との対立はますます激しくなり,国際連盟からもリットン調査団が派遣されました。朝河は,国際的な正義の立場から,日本の態度について,国際感覚の不足が,日本の将来に禍(わざわ)いをもたらすのでないかと厳しい忠告を送りました。日本は「満州国」の承認が42対1で否決されると,国際連盟を脱退し国際社会で孤立化の道を


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