朝河貫一その生涯と業績に学ぶ -015/025page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

歩みはじめました。5・15事件〔1932(昭和7)年〕,2・26事件〔1936(昭和11)年〕と,軍部の支配が強くなり,自由に発言できなくなっていった日本は,1937(昭和12)年,中国との全面戦争を始めました。この時期はまた,ドイツでヒトラーが政権を獲得し,ナチズムによる独裁政治があれくるいはじめたときでした。このような情勢の中で朝河は,国際的な立場から,日本の学者や友人達にたびたびきびしい忠告を送るのでした。伊達郡に住んでいた甥の斉藤金太郎あての手紙で「日本の新聞が毎日来ますが,戦いのことまで日本の記事が当地の新聞より短く,日本人に知られないことが多く世間に知られて居ります。……(事情がよく知らされていない日本では)…罪のない忠実な一般の人民が最も気の毒であります。」と書き送っています。国の外にあって,無謀ともいえる戦いに落ちていく祖国への深い憂いとあせりが朝河の心をとらえていきました。太平洋戦争開戦まで彼は米国から,一人の国際人として祖国日本を憂い,日本の進むべき道について,何度も何度も警告の手紙を送り続けました。今,読み返してみてその適確さ,公平さには驚くぺきものがあります。

 やがて,1939(昭和14)年,ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まりました。この動きに驚いた朝河はナチスドイツの行動をはげしく非難し,それを狂気の侵略戦争ときめつけ,ヒトラーはやがてドイツ民族をほろぽし,彼自身自殺せざるを得ないだろうと予言しました。それにもかかわらず日本が,開戦後まもなくのドイツ・イタリアの勝利にまどわされ,日独伊三国軍事同盟を結び,インドシナ半島・フィリピン・ビルマと軍隊を進めていくのをみて,朝河は,日本もまた,ドイツと同じく破滅してしまうと警告するのでした。外国で多くの情報と豊富な学者としての知識をもった彼の愛国心と,当時の日本の指導者の愛国心との間には,大きなへだたりがありました。

 朝河の期待に反して,1941(昭和16)年日本には東条内閣が成立し,アメリカとの戦争体制は整いました。このような破局を目前にして,朝河は日米開戦だけは何としても避けたいと考え,金子堅太郎や鳩山一郎(はとやまいちろう)など日本の識者に手紙を書きこの緊急事態をさけるための努カを求めていきます。アメリカの有カ者にも働きかけF・D・ローズベルト大統領の天皇への親書を送る運動をすすめましたが,それがまとめられて東京に届けられたのは1941(昭和16)年12月8日の0時すぎ,すでに日本軍による真珠湾攻撃が開始されたあとでした。朝河が全身全霊を打ち込んでの


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は二本松市教育委員会に帰属します。
二本松市教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。