朝河貫一その生涯と業績に学ぶ -016/025page

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努カも空しく,太平洋戦争は始ってしまいました。

 太平洋戦争の開始と共に,米国内の日本人は財産の凍結や強制収容所に送られるなど,規制の強い不自由な生活を余儀なくされました。その中にあって,朝河は,研究と行動の自由が保障されていました。朝河に対する評価は高く,多くの学者・文化人が彼の人権を守るため努めてくれたからです。こうして彼は,1942(昭和17)年の定年まで大学院で講義を続け,退職後は,名誉教授の称号が贈られひきつづき研究ができましたし,アメリカ国内の多くの友人,教え子達との通信も自由でした。多少の不便はもちろんありましたが,アメリカは,多年にわたる学者としての実績と自由主義者,平和主義者としての朝河に敬意を持って接したのです。朝河は「敵国の中の自由人」だったのです。戦いが日本に不利に進むなかで,日本の進路についての切々たる想いを友人達への手紙に見ることができます。

イエール大学 大学院塔
イエール大学 大学院塔

友情に包まれて
友情に包まれて

 太平洋戦争の最中にあっても,アメリカ国内に起った天皇処刑論に対して,日本の政治状況を説明して反対し,また戦時下のアメリカにおける自由主義・民主主義の弱さやもろさを指摘し,戦後世界の平和と自由についてアメリカ国民に語りかけるなど,国際人として,学者としての朝河の姿がありました。

 1943(昭和18)年にイタリアが降伏し,1945(昭和20)年には,ヒトラーの自殺,ドイツの無条件降伏と続き,8月,日本も無条件降伏し,戦争は終りました。


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