朝河貫一その生涯と業績に学ぶ -017/025page

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7 晩  年

 日本の敗戦は,朝河にとってもショックでした。彼は日本の友人からの手紙で,日本の混乱を知り心を痛めたのでした。その後,彼は日本の復興を願いながら,より一層研究活動にカを注いだのです。

 イェール大学定年退職後の,朝河の研究に向かう心は,以前にも増して厳しさを加えていきます。彼は,朝6時から夜は8時すぎまで,午後の大学キャンパス内の短い散歩をはさんで,研究を続けたのでした。

 このころ,彼の散歩は,むかし妻と二人で住んだ家,二人で散歩した公園,それに二人の思い出の場所などへ出掛けるようになっていました。公園では,二人で一緒に座ったベンチに腰をおろし,楽しかった日々のさまざまな思い出をたどったりしたものです。

 1948(昭和23)年夏,朝河はいつものように貸別荘グリーン・マウンテン・ハウス(バーモント州ウエスト・ワーズボロ)へ向かいました。相変らず「夏休みの仕事」をたくさん抱えて学問(このことばを非常に好んだ)に励んだのです。

 8月11日の明け方,彼はだれにも見とられることなく,ひっそりと息を引きとりました。死因は心臓発作,数えで76歳の生涯でした。訃報(ふほう)は全世界に伝えられ,「現代日本が生んだ最も高名な世界的学者Dr. Kan'ichi Asakawaが」と表現しながら,その死去を報じました。また,日本占領アメリカ軍の新聞「星条旗(スターズ&ストライプス)」にも,哀悼の記事が載せられました。彼の死去の報道はこうして世界中をかけめぐったのです。

 その死去の知らせが日本に届いた時Dr. Kan'ichi Asakawaを,祖国日本の新聞はそろって「浅川貫一」と誤った漢字で紹介してしまったのでした。世界的な業績を残しながらも,日本ではほとんど知られていなかったのです。

 朝河の遺体は大学葬をもって,グローブ・ストリート墓地に運ばれ,夏休み中にもかかわらず,かけつけた数多くの同僚・友人に見守られながら,永遠の眠りにつきました。

 故郷の二本松にも,彼の甥の斎藤金太郎氏が金色墓地に,朝河と妻美里安(ミリアム)の墓を建てて冥福を祈りました。また,当時の遊佐一郎町長を会長として顕彰会ができ,1949(昭和24)年には,1周忌記念大講演が行われました。そして,父が朝河と同


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