朝河貫一その生涯と業績に学ぶ -021/025page

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9 年  譜

年   次 事         項
1873(明治 6)




1874(同   7)


1876(同   9)

1877(同 10)


1879(同 12)
1886(同 19)

1887(同 20)

1889(同 22)


1890(同 23)

1892(同 25)




1893(同 26)

1894(同 27)



1895(同 28)




1896(同 29)

1897(同 30)
1898(同 31)
1899(同 32)
12月20日,福島県安達郡二本松町根崎下ノ町の新長屋に生まれる。父は朝河正澄,母はウタ。正澄は二本松藩士宗形治太夫の次男であり,明治2年9月に同藩旧砲術指南朝河家の未亡人ウタに入夫した。このときウタは,姑ヤソと先夫照成との間に生れた二人の娘イク・キミを抱えていた。
8月7日,正澄は伊達郡立子山村立小学校(同村天正寺に仮設開校)の教員として赴任することになり,一家をつれて天正寺に移り住む。
1月19日,母ウタが死去し,ニ本松町真行寺に埋葬される。7月,立子山小学校の新校舎が完成する。
6月,小学校が総二階に改築され,二階の東隅が教員宿舎となったので,朝河一家は天正寺から移り住む。この年,正澄は梁川町より後妻ヱヒを迎える。
5月,立子山小学校初等科に入学する。
この年,立子山高等小学校3級を了えて川俣高等小学校に転校する。
4月11日,父の薦める師範学校進学を好まず,福島県尋常中学校に入学する。
3月26日,同中学校が安積郡桑野村に移転したので,朝河も同校とともに移り,開成山大神宮禰宜宮本宅に下宿する。同校はのちに安積中学校と改称する。
4月,英語教師イギリス人T・E・ハリファックスが着任,その教えを受ける。
3月24日,同中学校を首席で卒業する(前年度より特待生となる)。5月より8月まで郡山町の金透小学校で英語教授の嘱託を勤める。11月,東京専門学校(のちの早稲田大学)文学料の編入試験を受けて入学する。また英人教師問題につき福島県議会に建白書を送る。
6月2日,午前10時本郷教会において横井時雄により洗礼をうけ,キリスト教徒となる。
2月,米国ダートマス大学学長タッカーが朝河の同大学留学のさいの授業料と寄宿舎費の免除を横井時雄に約束する。この年秋頃より渡航費の準備を心掛ける。この頃一女性と交際する。
7月20日,東京専門学校を首席で卒業する。同級生に綱島梁川・五十嵐カらがいる。9月4日,義祖母ヤソが死去し,天正寺に埋葬される。10月27日,哲学会送別会。12月7日,横浜港より出航し米国に向かう。大西祝・大隈重信・徳富蘇峰・勝海舟・渡辺弥七らが彼の渡航費を援助する。
正月,ニューハンプーシャー州ハノーヴァーにつき,ダートマス大学の一年に編入される。
5月,徳富蘇峰の訪問を受ける。
6月,『国民の友』に「日本の対外方針」を発表する。
6月,ダートマス大学を卒業し,9月,イェール大学大学院歴史学科に入学する。こののちタッカーの援助のもとにイェール大学の給費生として大学院課程を修める。

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