朝河貫一その生涯と業績に学ぶ -022/025page

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年   次 事         項
1902(明治35)



1903(同 36)

1904(同 37)


1905(同 38)






1906(同 39)








1907(同 40)







1908(同 41)
1909(同 42)



1910(同 43)

1911(同 44)


1912(大正 1)


1913(同  2)



1914(同  3)
6月16日,学位論文『645年の改革(大化改新)の研究』(英文)により,Ph・Dを授与され,総長ハドレーよりその出版費の補助を受ける。9月,ダートマス大学講師となり東西交渉史などを講義する。10月,月例教員研修クラブを結成する。
7月23日,継母ヱヒが死亡し,天正寺に埋葬される。10月父が退職し,11月3日二本松町久保丁に転住する。
2月,日露戦争起り,夏まで米国各地で講演し,論文を発表して戦争の原因を説き,ついで11月,『日露の紛争』(英文)を英米において刊行し,日本の正義を英米国民に説く。
7月,父より見合写真が届き,謝絶の意を伝える。8月,日本側オブザーヴァーとしてポーツマスに二週間滞在し,日露講和会議の推移を見守り,その妥結を主張する。10月13日,ニューヘイヴン市在住のミリアム・J・C・ディングウォール(1879年4月23日生)と結婚し,市内のウィンスロップ通りに新居をもつ。12月27日,父に愛と義の一致を説き,アメリカで学究生活を続行する意志を訴える。
1月,ダートマス大学を辞し,イェール大学図書館および米国議会図書館より日本における日本関係図書の収集を依頼される。2月1日,シアトル港で乗船し,同月16日,横浜港に到着する(第1回帰国)。父正澄は二本松より横浜に出て十年ぷりに朝河と対面する。5月28日,伊藤博文に「帝国憲法」制定関係資料の公開を迫る。9月20日,父が腸捻転で急死し,真行寺で葬儀を営み,二本松町向山墓地に埋葬する。9月30日,父の家を畳んで東京に移り住む。こののち日本の学界との交流と図書の収集に専念する。
8月7日,横浜港を出帆し帰米する。在日中の図書収集にたいし文部省など諸官庁ならびに東大や諸寺社が協カした。朝河は帰米後9月よりイェール大学講師となり,日本文化史を担当する。9月14日,ワシントンの日本大使館において,改めてミリアムとの結婚式を神式で挙げる。ここにミリアムは朝河家へ入籍される。10月,姉崎正治の訪問を受ける。11月,イェール大学図書館の東アジアコレクション部長を兼ねる。その後40年間その任にある。
5月,黒板勝美,ついで阪谷芳郎前蔵相の訪問を受ける。
6月,実業之日本社から『日本の禍機』を出版し,日本外交の背信を戒め,あわせて日本の愛国教育を批判する。8月,桑木厳翼,和田万吉の訪問を受ける。9月,ウースターのクラーク大学で講演。10月,渋沢栄一の訪問を受ける。
2月,菊地大麓を招いて講演会を催す。5月,大学院の日本文化史助教授への昇進がきまる。
5月,腸チフスにかかる。医師と妻の看護により重態を脱し,9月19日までグロスターの保養所にいる。10月,辻善之助の訪問を受ける。11月,クラーク大学で講演。
3月,東京帝国大学史料編纂掛事務主任(所長相当)三上参次に日米外交文書採訪の意図の有無を訊す。この年新渡戸稲造の訪問を受ける。
妻ミリアムがバセドー氏病手術の結果が悪く2月4日に死亡し,エヴァグリーン墓地に埋葬される。朝河との間に子どもはなかった。5月,レーク・モホンクの第19回列国仲裁会議に出席,10月,鎌田栄吉の訪問を受ける。
5月,新首相大隈重信にたいし国政参与の希望を述べ,ついで第20回列国仲裁会議に列席。10月,高田早苗の訪問を受ける。

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