朝河貫一その生涯と業績に学ぶ -023/025page

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年   次 事         項
1915(大正 4)





1917(同  6)





1918(同  7)



1919(同  8)




1920(同  9)



1921(同 10)



1923(同 12)







1924(同 13)


1925(同 14)


1926(同 15)

1927(昭和 2)
1929(同  4)




1930(同  5)
1月10日,大隈首相にたいし膠州湾を中国に還付するよう忠告する。5月24日,同首相に覇権なきアジア外交ををめざすよう勧告する。6月4日,イタリア・フランス・イギリス三国の調査旅行に出発し,イタリアのカプリ島でダイアナ・ワッツと再会,文通が始まる。8月戦時下のパリから坪内逍遥に近況を報告し,9月30日に帰着する。10月市河三喜の訪問を受ける。
1月,穂積重遠,3月,服部宇之吉の訪問を受ける。4月,米国参戦のため軍隊調練を受ける。6月21日,ヴァンクーバーを発ち,7月5日に横浜港につく(第2回帰国)。日本の中世史研究のため東京帝国大学史料編纂掛に留学する。12月10日,イェール大学総長より留学期間の一年延長を許可する旨の通知が来る。この年,日本の朝野の歓迎をうける。
3月27日,慶応義塾大学で日本アジア協会のために講演,7月15日,奈良・京都など関西方面の調査のため東京を発つ。11月1日,史料編纂補助嘱託の辞令を受ける。この年在日アメリカ人ベラ・アーウィンとの交際が始まり,5年間文通を続ける。
1月15日,半年間の調査を終え帰京する。5月13日,九州の調査旅行に出発し,四国・中国を経て九州に入る。6月8日より同16日まで鹿児島県薩摩郡入来村に滞在し,7月20日に帰京する。9月13日,横浜港で乗船し,北米シアトル港に向う。こののち朝河はふたたび故国の土を踏むことはなかった。
4月11日,三成重敬への手紙の中で,世界の情勢を示しながら,日本のシベリア出兵などの暴挙を酷評する。この月ダイアナ・ワッツの求婚を謝絶する。年末までに『入来文書』原稿をプリンストン大学出版会に渡す。
6月22日,新総長エンジェルの就任式に当たり,野口英世と歓をつくす。これより先,ハドレー総長の任期終了,大学の財政難を考え,坪内逍遥に母校早稲田大学への転職打診を始める。10月より1年間マリオン・Vと交際する。
9月7日,関東大震災につき駐米日本大使に東大およびその図書館の被災状況の詳報を求める。やがて東大図書館長より詳報があると,10月・11月の間米国議会図書館長その他にたいし,図書などの寄贈方について努カする。新学年の9月より新しく欧州中世比較法制史の講義・セミナーを担当する。10月,アンティオーク大学モーガン総長の紹介でモリス氏夫人の国際補助語運動に参画する。この年ウォーナー夫妻との交際が始まる。
6月,ペラ・アーウィンと再会,求婚するが結実しない。7月1日,9月下旬までの予定でイタリアヘの調査旅行に出発する。この年『入来文書』の発行元が変り,原稿の補訂に着手する。
7月,イナ・パリッシュ(のちのギャリソン夫人)と再会し,その双生児の娘ヘレンとオリーヴを知る。10月7日,日本で『入来文書』の日本文史料の印刷が完成する。
9月より新たにフランス・ドイツ中世比較法制史の講議・セミナーをも担当する。
7月,歴史学助教授に任命される。
4月,米国国際補助語協会(IALA)の研究協力委員会副委員長として委員長モリス氏夫人のために「言語研究について」の意見書を草する。5月,『入来文書』が完成し,イェール大学とオックスフォード大学より発行される。この年よりマルク・ブロックとの交友がはじまり,『社会経済史年報』書評欄に協力する。
7月,歴史学準教授に昇進する。11月,IALA改組に伴い調整進行委員会委員長となる。この年マルク・ブロック・オットー・ヒンツエらの『入来文書』の書評が出る。

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