朝河貫一その生涯と業績に学ぶ -024/025page

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年   次 事         項
1931(昭和 6)


1932(同  7)

1933(同  8)


1934(同  9)



1935(同 10)
1936(同 11)
1937(同 12)
1938(同 13)


1939(同 14)



1940(同 15)



1941(同 16)





1942(同 17)






1944(同 19)


1945(同 20)
1946(同 21)

1947(同 22)

1948(同 23)
1月,高木八尺に『社会経済史年報』書評用文献の斡旋を依頼する。6月,ダートマス大学より名誉文学博士の称号を贈られる。
2月21日,満州事変にたいするアメリカ国民の非難を大久保利武に伝える。
7月,希望に反して歴史学研究員(正教授待遇)に配置換となる。9月16日,徳富蘇峰にたいし彼の国家主義思想の危険性について忠告する。
夏,日本イェール大学会寄贈の日本古文化資料がイェール大学に到着し,12月,大学図書館333号室に陳列,公開される。この年よりセイブルック・カレッジの準フェローとなり,そこに移り住む。六つの部屋をもつ。
10月,ジョージ・サンソン夫妻との交際が始まる。
6月,カリブ海のドミ二力共和国,プエルトリコに旅行する。
7月,歴史学教授に昇進する。
3月6日,日本軍の南京での暴挙が武士道に反するとの論難を中桐確太郎に書き送る。10月,シーモア総長に東アジア・コレクション後継者として弥永千利を推薦する。
10月8日,ヒトラーの自殺を村田勤に予言する。ついで10月22日,日本の東亜新秩序論の狂想ぷりを同じく村田への手紙で非難する。これらの手紙は村田によって識者たちへ回覧された。
1月13日,井上秀へ日本軍の中国における暴虐行為を報じ,同月28日,鳩山一郎にたいしても,「新秩序」を批判し,日本は広く自己の客観的な姿を見るよう忠告する。この年,胆嚢と盲腸の手術を受ける。
1月19日,村田勤へ日独伊三国の敗北を予言する。10月12日,日本の大改革を金子堅太郎へ要請する。11月23日,昭和天皇へのローズヴェルト大統領親書案を書きおえ,発案者の旧友ラングドン・ウォーナーへ送る。12月8日,イェール大学総長が日米交戦中の朝河の自由と生活の庇護を約束する。FBIも彼の自由について同様の方針をとる。
3月29日,エリス島抑留を解かれた角田柳作に近況を訊す。4月5日,教え子のウィリアム・ウィルコックスへ,アメリカ人の国民性や世界政策の反省点などを指摘する。6月,定年を迎え名誉教授に推される。居所をセイブルック・カレッジより大学院塔の9階に移す。蔵書5千冊を図書館に寄贈する。11月22日,ラングドン・ウォーナーが提示した日本救済委員会の構想にたいして助言を送る。
10月2日,アーヴィング・フィッシャーにたいして,天皇制を弁護しつつ日本の降伏後の民主主義改革を論じ,あわせて将来,日本に大きな発展が来たるべきことを明言する。
春,心臓病の治療を受ける。
9月,ジュオン・ド・ロングレーの訪問を受ける。この年ウォーナーのために戦後日本に関する長文の覚書を作る。
11月30日,日本人の国民性の欠点とその克服の方向について,村田勤に説く。
8月2日,ヴァーモント州ウエスト・ワーズボロの山荘で暑中の研究生活を送るため,ニューヘイヴンを発つ。10日,風邪のため医師に会い治癒の診断を得たが,11日早暁,心臓麻痺のため人を呼ばずに死去する。ときに74歳。イェール大学は告別式を挙行し,ニューヘイヴン市グロウヴ・ストリート墓地の大学用地に葬る。歴史学科副科長ハントレー・シンプスン教授が遺産の管理に当る。

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