歴史と文化の薫るまち 須賀川 -002/013page
[国] 米山寺経塚群【べいさんじきょうづかぐん】
米山寺経塚は、市内西川の日枝神社境内にあります。明治17年に、神社本殿の改修をするため裏山にあった塚を整地した際、土中から青銅製の 経簡【きょうづつ】や経文【きょうもん】を入れた陶製の簡などが発見されました。経塚は全部で10基発見されています。この経塚が造られた時代は今から約830年前の平安時代 後期(承安【しょうあん】元年)で、当時末法【まっぽう】思想(釈迦の死後1500年以降は仏法が滅び最悪の時代になる)が全国に広がり、これを恐れた人々が、将来、弥勒菩薩【みろくぱさつ】が出 現してこの世を救うときまで経文などを土中に埋納して残しておこうとする目的で築いたものです。この経塚の中でも3号経塚は、はぼ原形のまま保 存され,平安末期における経塚の構造例として貴重であります。
[国] 上人壇廃寺跡【しょうにんだんはいじあと】
本遺跡は昭和36年、東北本線複線電化工事に伴う発掘調査以降、数度にわたる発掘調査の成果により、奈良〜平安時代の貴重な遺構、遣 物が発見されました。全国でも発見例の少ない六角瓦塔【ろっかくがとう】をはじめ、数多くの瓦、円面硯【えんめんけん】(高台のついた円い硯【すずり】)、土器類、さらに、規格性を もった堀立柱【ほったてばしら】建物跡などが検出され、当時の当地方における政治的施設と考えられています。特に続日本記【しょくにほんぎ】に記載されている養老2年(718) の石背国設置(石背郡がそれまでの統治国であった陸奥国から分かれ、白河・会津・安積・信夫の四郡とともに石背国の統治下になった)に深く 関わる遺跡と考えられています。
[国] 須賀川の牡丹園【すかがわのぼたんえん】
この牡丹園は、今から約230年前の明和【めいわ】3年(1776)、薬種商(屋号 和泉屋)であった伊藤忠兵衛祐倫【いとうちゅうペえいゆうりん】が 薬用とする牡丹の苗木を摂津国【せっつのくに】山本村 (現在の兵庫県宝塚市)から買い求めて現在の牡丹園の地に栽培したのが始まりといわれ、当時はこの地を伊藤新田と称していました。その後(明 治初年)、牡丹園は伊藤家から柳沼家に譲渡され、このときから牡丹園は観賞用として整備拡大されていきました。現在約10haの園内には、 290種、7000株のと牡丹があリ,種類のの豊富さ, 一つ一つの株立ちの大きさなど名実ともに東洋一の牡丹園です。見ごろは5月中旬です。