歴史と文化の薫るまち 須賀川 -007/013page

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[市] 前田川五輪坊石幢【まえだがわごりんぼうせきどう】

前田川五輪坊石幢

 鎌倉時代も終わりに近付くと、東国を中心とした武家勢力と京都を中心とした公家勢力との間に対立が生じ国内の政情が不安定になりま した。中央での争乱は東北にも及び当時の須賀川地方を治めていた二階堂氏のところへも緊急に兵士の派遣を求める命令があったと考えら れます。須賀川地方からは3050人の兵士が徴用され、これから戦場に臨むにあたり兵士たちは、逆修供養【ぎゃくしゅうくよう】(生前に極楽往生を願い供養を行 うこと)を受けたといわれています。この時、建立したのがこの石幢です。石幢の四面には死後極楽往生したい兵士たちの切実な願いが刻み 込まれています。

[市] 筑後塚供養塔群【ちくごづかくようとうぐん】

筑後塚供養塔群

 この供養塔群は板碑が二基と阿弥陀三尊来迎浮彫供養塔【あみださんぞんらいごううきぼりくようとう】、阿弥陀二尊浮彫来迎供養塔の合計四基からなる供養塔群で、阿弥陀三尊来迎浮 彫供養塔には死者を西方浄土へ送る「送り来迎」の姿が刻まれています。当時この地方一帯は天台宗の大きな拠点であり石像美術の盛業を みせていました。この天台宗は、二階堂氏の庇護を受けていたとも伝えられており、当地方に多くの阿弥陀三尊の供養塔が発見されている ことからも伺い知ることができます。

[市] 関下五輪山供養塔正覚の碑【せきしたごりんざんくようとうしょうかくのひ】

関下五輪山供養塔正覚の碑

 この供養塔は、一般に板碑(板石塔婆【いたいしとうば】)と呼ばれるもので、凝灰岩を使用した高さ2.1m、幅0.75mの市内に数多くある板碑のなかでも 特に大きなものです。板碑の正面上部には胎蔵界大日如来【たいぞうかいだいにちにょらい】を表す梵字【ぼんじ】(種子【しゅじ】)「 【アーク】」が薬研彫【やげんぽり】(X字形に彫ること)され、その下方には「右當 先考五七忌正鷹二年(1289)巳丑九月廿九日 敬白 為成等正覚也」と刻まれていることがわかります。大日如来は真言密教の中心となる仏 であることから、当時この地域の仏教を探る上で重要な役割をもっています。 


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