1999 須賀川市勢要覧 「和 TAIWA」 -039/044page

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小林久敬 Kobayashi Hisataka

小林久敬

 小林久敬は、安積疎水の必要性を強く明治政府に訴え、その実現に尽力し、現在の郡山市の基礎を築いた人物として、広く知られています。しかし、その生涯は、決して幸せなものではなく、波乱に満ちていたことが、多くの文献から明らかになっています。

 文政4年(1821)、須賀川の中町で町役人を務めていた小林久長の次男として生まれた久敬は、天保の大ききんを機に、幼いころ、父に連れられ訪れたことのあった、猪苗代湖から、安積平野、そして岩瀬地方へと、湖水を引けば、多くの人々を救うことができるのではないかと考えるようになります。そして、その思いはますます強くなり、30歳の時には、猪苗代湖と岩瀬地方が一望できる斉木峠に立ち、「必ず須賀川まで引くことができる」と確信しています。久敬は、この峠近くにトンネルを掘れば、高度的に自然流水が可能であり、かつ経済的にも時間的にも最良の策であると考えていたのです。

 この斉木峠案を実現するため、久敬は、先祖代々の土地を元手に資金を集め、それでも足りない分は、地元の有力者たちにお願いしました。しかし須賀川の有力者たちには、「途方もないことを」と取り合ってもらえないばかりか、「斉木峠案では、須賀川まで水が来ないのでは」と懸念する多くの人たちから、強く反対されてしまいます。それでもあきらめずに奔走した久敬は、安積地方の人たちの賛同を得ることに成功し、全財産を注ぎ込んで、測量を行うなど、用水賂づくりに打ち込みました。

 ところが、明治12年、安積疎水工事に着手した政府と県は、失業した武士を熱海地区などへの開墾により救うため、久敬の斉木峠案ではなく、沼上峠への工事を進めていきます。そのうえ妻子にも見放された久敬は、失意のもと、わずかに残っていた郡山の土地にあばら屋を建て、一人住み着き、疎水工事の現場で様々な進言を行いますが聞き入れられませんでした。しかし、この工事は、オランダからの招へい技師・ファンドールンの指揮の下、順調に進められ、わずか4年の短期間で安積平野へと通水したのです、形はどうあれ、通水式で、水門が開かれ、湖水が安積平野へと流れると同時に、30数年間、私財を費やし、情熱を注いだ久敬の悲願が、ついにかなえられたのです。そしてその2年後、郡山のあばら屋で、わずかな土地を耕し、自給自足の生活を営んでいた久敬は、その疎水実現への情熱と見識がついに政府に認められ、民間功労者として、新宿御苑の宴に招かれ、明治天皇から銀杯を賜るとともにその労をねぎらわれました。晩年は、病気がちとなり、不自由な生活を送っていましたが、郡山市の福祉事業の先駆者・鈴木信教・如法寺住職に賓客として迎えられ、明治25年、71歳の生涯を終えました。その後、昭和25年には、第2安積疎水が誕生し、現在では、岩瀬地方や須賀川まで、その恩恵による美しい田園が広がっています。また、須賀川市と郡山市には、久敬の句碑と顕彰碑が建てられ、その情熱が今も語り継がれています。

柳沼源太郎 Yaginuma Gentaro

柳沼源太郎

 須賀川の牡丹園を語るうえで、最も重要な人物が、柳沼源太郎です。

 もともとこの牡丹園は、明和3年(1766)、須賀川の薬種商「伊藤祐倫」が、牡丹の苗木を薬用のために、現在の兵庫県宝塚市から買い求め、栽培したことが始まりと言われています。そして明治時代の初め、この牡丹園が伊藤家から柳沼家に譲渡され、薬用目的のものが鑑賞用へと切り替わることになったのです。

 源太郎は、須賀川町の2代目収人役で、中町の商家「糸八木屋」の経営者・柳沼信兵衛の長男で、信兵衛亡き後、牡丹園経営を引き継ぎました。現在の牡丹園の名声を築き上げた人であり、その取り組みには寝食を忘れる程であったと言われています。

 明治8年生まれの源太郎は、牡丹園の経営を軌道に乗せるには、専門的な栽培の勉強をしなければと、15歳の時に上京し、開成中学を経て東京農家大学に学び、そして帰郷後は、家業の糸八木屋を弟に任せ、自分は牡丹園に移り住み、牡丹栽培一筋に励みます。牡丹の時期に満足のいく見事な花を見せるには、ただひたすらに、四季を通じて手入れするしかないと、作業員たちとともに励み、特に冬の手人れを怠らかったと伝えられています。

 また、源太郎は、牡丹栽培に精力を傾ける一方で、俳人としても優れた才能を発揮し、大正時代には、原石鼎の門に入り、破籠子(はろうし)の名で数々の名句を残しています。例えば、牡丹園内に建立された源太郎の胸像に刻まれている、「園主より 身は芽牡丹の 奴かな」という旬は、「人は私のことを牡丹園の園主と呼ぶが、そんなおごり高ぶった気持ちはなく、愛らしい芽牡丹に心から仕えている一人に過ぎない」という牡丹を愛する心を表現しています。

 そして昭和7年、この牡丹園は、文部省からその価値が認められ、国の「名勝」の指定を受けることになったのです。しかし、不況が続いた当時は、牡丹園も例外ではなく、経営難の苦境に立たされていました。現に源太郎は、経営補助申請と、町への移譲の願書を提出していますが、町でもこの総面積8.64ヘクタールの牡丹園を管理運営することは、財政上大変困難な時代でした。幸いにも、柳沼家には資産家が多く、一族共同で手を取り合い、この難局を切り抜けました。

 牡丹園に一生を棒げ、また俳人としても活躍した源太郎は、その美しさを後世へと引き継ぎ、昭和14年、64歳でその生涯を閉じました。

 そして、昭和32年に財団法人化を経た牡丹園は、その後も源太郎の心とともに受け継がれ、国の名勝として現在に至っています。

[展開期]

昭和45年
(1970)
5月 昭和天皇皇后両陛下、行幸啓で牡丹園や市役所などをご訪問
  8月 県内初、市立博物館開設
昭和46年
(1971)
3月 市の総合計画基本構想を策定。国道118号開通
  4月 牡丹台野球場完成。江持小新築落成(昭和47年4月阿武隈小と改称)
  11月 西川土地区画整理事業に着手
昭和47年
(1972)
3月 中央公民館新築落成
  4月 澤田三郎氏市長当選(通算3期目)
  5月 牡丹台庭球場完成
昭和48年
(1973)
3月 中部地区土地区画整理事業が完了。図書館・牡丹台体育センター新築落成
  4月 須賀川地方広域消防組合発足
  11月 東北縦貫自動車道白河・郡山間開通

[成長期]

昭和49年
(1974)
2月 稲田公民館新築落成
  3月 うつみ保育園・ぼたん児童館開設
  11月 市制20周年記念式典
昭和50年
(1975)
2月 小塩江公民館新築落成
  3月 横山土地区画整理事業に着手
  9月 (財)坂本鉄蔵育英会創立。坂本鉄蔵氏を本市初の名誉市民に推載
昭和51年
(1976)
4月 澤田三郎氏市長当選(通算4期目)
仁井田公民館新築落成
  6月 牡丹台水泳場完成
昭和52年
(1977)
4月 広域消防本部と須賀川消防署が丸田町地内の新庁舎に移転。西一小新築落成
  6月 西袋公民館新築落成
  10月 優良都市として自治大臣賞を受賞
  11月 休日夜間急病診療所開設
昭和53年
(1978)
3月 墓地公園に302区画の墓地完成
  11月 都市総合交通規制を実施
昭和54年
(1979)
6月 東公民館新築落成
  7月 勤労青少年ホーム・武道館開設
昭和55年
(1980)
4月 澤田三郎氏市長当選(通算5期目)
  11月 歴史民俗資料館開設
昭和56年
(1981)
3月 市の第二次総合計画を策定
  4月 須賀川卸センター完成
  5月 文化センター新築落成。市民憲章・市の木「赤松」・市の花「牡丹」を制定
  8月 老人福祉センター新築落成
昭和57年
(1982)
2月 福島空港建設地が「須賀川東」に決定
  4月 柏城小新築開校。労働福祉会館新築落成。上水道の第3次拡張事業に着手
  6月 東北新幹線大宮・盛岡間開業
昭和58年
(1983)
4月 市民温泉新築落成。並木町運動場開設
  6月 須賀川駅前土地区画整理事業に着手
  7月 市民の森開設
  8月 斎場新築落成

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