1999 須賀川市勢要覧 「和 TAIWA」 -040/044page

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須賀川人物伝

服部ケサ Hattori Kesa

服部ケサ

 「人。その友のために生命を捨てる。これより大いなる愛はなし」。わずか40歳という短い人生を、この言葉どおりにライ病(ハンセン病)患者への献身的な治療に棒げた、熱心なクリスチャン女医・服部ケサは、ここ須賀川に生まれました。

 ケサの兄・躬治は、歌人で国文学者、また妹・てい子は、水野仙子の名で知られる女流作家で、ケサとともに「服部3兄妹」として、その名を今日に残しています。ケサも兄の影響を受け、文学を志し上京。与謝野鉄幹と晶子の主宰する「明星」や、河合酔茗の「女子文壇」に投稿するなど、早熟な文才と情熱には、目を見張るものがあったと言われています。しかしその後は、家族の相次ぐ疾患と、その看護に当たったことが、ケサの志に大きく影響を与え、医師を目指すことになります。

 明治38年8月、21歳で現在の東京女子医大に入学。両親との死別という悲しみを乗り越え、医師への志をさらに強くしたケサは、大正2年2月、最難関の医師試験に合格しました。その後、看護婦として勤めた東京三井慈善病院で、多くのライ病患者と出会ったケサは、その病状に心を痛め、その治療に一生を捧げることを決意し、その治療法を光田健輔・府立全生病院長から学びました。

 当時、ライ病は、不治の病といわれ、遺伝性のものと考えられていたために、ライ病を患った方の家では、他人に知られないようにと、遠隔の病院に入院させることが多かった時代で、明治20年6月には、政府が群馬県草津温泉・湯の沢地区をこれらの患者の居住地として指定しました。ちょうど同時期、イギリス人コンウィール・リー女史は、ライ病患者の救済を目的とした草津聖バルナバ医院を開設しています。そして大正6年11月、ケサは、その後の医療活動を支えてくれることとなる三上千代子とともに、この聖バルナバ医院に赴任したのです。

 そしてケサは、赴任と同時に休む間もないかのように、仕事に打ち込み、ライ病患者のみならず、地域の医療を支える医師として活躍するうち、いつしか、ライ病患者の理想郷をつくることへの思いを強くしていました。そしてついに大正13年、草津栗生村に、日本人として初めてのライ病専門の「鈴蘭病院」を開業したのです。

 しかしこの間の激務は、ケサの体力をひどく消耗させており、開業からわずか23日目にして、突然の心臓発作が襲い、帰らぬ人となりました。

 そしてこの鈴蘭病院は、昭和6年に国立療養所・栗生楽泉園となり、その後も、ケサの願いとともに、ライ病医療に大きく貢献しています。

須田 文字1 中 Suda Kyochu

須田拱中

 日本美術院同人で、多くの名画を残している須田キョウ中画伯は、本名を善二と言い、明治40年1月、須賀川の通称三丁目にあった雑貨商の3男として生を受けました。当時の三丁目は、奥州街道・南口の商店街として栄えており、キョウ中は、近郷近在からの買い物客で繁盛するにぎやかな環境のなかで、幼少時代を過ごしています。

そして大正11年、須賀川町立商業学校を卒業後、私立石川中学校の4年に編入しました。このころから、キョウ中は、画家の道への志を強くし、この石川中学校で2年間学んだ後、東京美術学校本科日本画科に入学しました。そしてこの在学中に、頭角を表し始め、1年生時には、作品「ぶどう畑」が日本画会展で入選しています。2年生時にも、第2回聖徳太子奉讃展で入選しますが、「在学中、許可なく官展への出品を禁ず」の学則に触れ、1週間の停学処分を受けるといったエピソードを残しています。

 在学中は、松岡映丘に師事し、昭和9年の卒業まで、帝展への連続入選を果たすなど、大いに活躍し、まさに日本画界の将来を担う若きホープとして期待されました。

 卒業後は、前田青邨の薫陶を受け、昭和26年からは、母校である東京芸術大学美術学部に教官として迎えられました。この学生たちへの指導により、キョウ中自身もまた学び、作風の変化した、多くの優れた作品を残しています。具体的には、日本美術院展に出品するようになった昭和27年を機に、それまでの古典的な作風が、変わり始めたと言われています。

 キョウ中は、昭和39年7月、心筋梗塞のため、57歳の若さで急逝。その早過ぎる才能の喪失は、日本画界への大きな打撃となりました。

 特に昭和37年の出品作品「吹雪」は、近代的な表現の可能性を探求し続けたキョウ中の大きな成果の一つと言われ、今もなお人々に愛されています。

 また、画伯の手によって、「牡丹のまち須賀川」にふさわしい図柄となっている、昭和37年建設の須賀川市体育館の舞台どんちょうは、今なお、市民に親しまれています。

[発展期]

昭和59年
(1984)
3月 市制30周年記念式典
  4月 高木博氏市長初当選
  7月 須一中新築落成。山寺土地区画整理事業に着手
  10月 釈迦堂川河畔に市制30周年記念の桜283本を植樹
昭和60年(1985) 4月 市役所前に「市民の庭」完成。俳句ポストを市内20か所に設置
  9月 澤田悌氏を本市2人目の名誉市民に推戴
昭和61年
(1986)
3月 稲田中新築落成。須一中体育館完成
  4月 保健センター開設
  6月 須二中新築落成
  8月 8.5水害で16億円の被害
  9月 福島空港の設置許可
  11月 福島空港整備を組み入れた第5次空港整備五箇年計画が閣議決定
  12月 テクノポリス地域の指定
昭和62年
(1987)
2月 西袋中新築落成
  4月 「明るい長寿社会を築く市民基金」創設。牡丹園に日木庭園と牡丹姫像が完成。翠ヶ丘公園に翠滝とせせらぎ広場が完成 
  10月 水道資料館開設
  11月 和田池住宅地区改良6か年事業により13棟126戸完成
  12月 諏訪町土地区画整理事業に着手
昭和63年
(1988)
4月 高木博氏市長当選(2期目)。大東公民館新築落成。県立清陵情報高校開校
  9月 福島空港の起工式
平成元年(1989) 3月 仁井田小新築落成
  4月 芭蕉記念館・産業会館開設
  7月 和田池市営住宅が建設大臣表彰を受賞。
翠ヶ丘公園が「日本の都市公園百選」に選定
  11月 中宿橋完成。松明太鼓創作。(財)須賀川市都市振興公社設立
平成2年
(1990)
1月 新時代の「空」をイメージしたスカイブルーの市旗を制定
  2月 仁井田小体育館完成
  3月 ふれあいセンター完成。大森小・仁井田小のプール完成。須賀川地方保健環境組合の「ゴミ処理施設」完成
  4月 乙字ヶ滝が「日本の滝百選」に選定。
  11月 須賀川物産振興協会設立
平成3年
(1991)
3月 市の新総合計画2000を策定。頭脳立地法の地域指定が承認
  8月 須三中新築落成
  10月 須賀川駅の新駅舎開業
  11月 滑走路2,500m化を組み入れた第6次空港整備5箇年計画が閣議決定。翠ヶ丘公園に万葉歌碑60基が完成
平成4年
(1992)
3月 市内の5農協合併により「すかがわ農協」発足。大東地域体育館完成

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