1999 須賀川市勢要覧 「和 TAIWA」 -041/044page

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円谷幸吉 Tsuburaya Koukichi

円谷幸吉

 昭和39年、東京オリンピックのマラソン大会。裸足のランナーとして有名なエチオピアのアベベ選手に続き、国立競技場に入って来たのは、日本国民の期待にこたえ、力走する円谷幸吉選手でした。

 ラジオやテレビのアナウンサーの声が次第に大きくなり、日本中が、その放送に釘付けとなりました。後方から追い上げるイギリスのヒートリー選手との、今も語り継がれるデッドヒートの末、ついには抜かれたものの、堂々たる第3位。陸上競技日本唯一のメダルを手にすることとなった円谷選手は、沸き起こる大きな歓声を背に、表彰台へと登ったのです。

 円谷選手は、昭和15年、この須賀川市に生まれました。そして、県立須賀川高校に入学した幸吉は、2年生の夏、福島縦断駅伝の代走を務めた際に、区間新記録を出したことを機に、本格的な陸上競技への道を歩み始めます。高校を卒業後、陸上自衛隊郡山駐屯部隊に入隊しましたが、幸吉にとって、この自衛隊は、規律正しい生活のなか、十分な練習時間が取れる最高の職場だったのです。

 昭和36年の青東駅伝では、3区間を走り、その3区間すべてにおいて、新記録を樹立し、特に延べ15人を追い抜いた記録は、今も破られていません。

 その翌年、幸吉は、自衛隊体育学校の開校と同時に、第1期生として入学する一方、中央大学の経済学部にも入学し、陸上と勉学に励みます。そして数々の大会で、世界記録や日本記録を塗り替えます。昭和39年8月のオリンピック候補選手記録会では、1万メートルで世界最高記録を出した後、マラソンのオリンピック代表選手選考会に臨み、2位の成績を修め、オリンピックヘの出場を決めました。

 そして迎えた本番での大活躍が、劇的なデッドヒートの場面とともに、今日まで語り継がれているのです。

 しかしその後は、休む間もなく、国際試合への出場や講演会などによるハードスケジュールが続き、持病の腰痛を悪化させ、ついには、左足、そして右足と続けざまの、アキレス腱切断というけがに見舞われます。手術を受け、次のメキシコオリンピックに向けて練習に励みますが、病状は一向に良くなりませんでした。

 昭和43年1月9日、幸吉は、「疲れきって、もう走れません」という家族への遺書を残し、自ら命を絶ちました。享年27歳。余りにも短く、早過ぎる生涯でした。

 現在、幸吉の生家は、「円谷幸吉記念館」として、全国の多くのファンのために提供されています。また、須賀川市が毎年11月に開催する「円谷幸吉メモリアルマラソン」には、全国から、多くのランナーが集い、その業績をしのんでいます。

円谷英二 Tsuburaya Eizi

円谷英二

 今もなお、子供たちにはもちろんのこと、大人たちにまで絶大な人気を誇る「ウルトラマン」シリーズと「ゴジラ」などの怪獣シリーズ。

 これらの名作を生み出し、特撮技術を日本映画界に普及させたのが、円谷英二監督です。

 明治34年、本名を英一と言い、須賀川市中町の由緒あるこうじ屋に生まれた英二監督は、幼くして両親と死別しています。その後、祖母とともに暮らす英二少年は、小学校に入ったころから、飛行機に強くあこがれるようになります。

 そのため、少年時代は、飛行機や飛行船などの模型を作ることに熱中しながら、過ごしています。そして、16歳の時に就職のため、上京しますが、やはり、飛行機へのあこがれは捨て切れず、半年でその会社を辞め、羽田の日本飛行学校に入学してしまいます。

 ところがその学校は、練習機がただ1機のみ。そのうえ、潮の満ち引きに左右され、満足に飛行訓練ができない状況でした。さらに入学した翌年には、その練習機が墜落し、先生が死亡。ついには、閉鎖となってしまいます。そしてやむなく入学した神田の電気学校で、写真機のとりことなり、新たな道を歩むことになったのです。そして18歳の時に偶然出会った天然色活動写真の技師長の勧めで、映画会社に入社し、映画製作者としての第一歩を踏み出します。

 大正14年、松竹京都撮影所に移り、にっかつを経て、昭和12年、特殊技術課が創設された東宝撮影所へと入社しました。その後は、冒頭でご紹介のように、特撮映画を次々と世に送り出し、その高度な技術力により、日本映画界を大きく前進させていきます。

 昭和29年には、円谷の名を日本中に知らしめた「ゴジラ」が誕生。数百万年も前に減びた怪獣が東京に上陸。高圧電線に引っ掛かり、怒り狂い火炎を吐くゴジラの姿は、リアルさに満ちた特撮映像で、観客を大いに興奮、熱中させたのです。

 このゴジラのように、目の動きやビルの壊れ方一つにもこだわって製作された怪獣映画は、「モスラ」「ラドン」など、30本にも及び、また、その特撮技術を取り入れた「日本誕生」「世界大戦争」「山本五十六」などといった大作を合わせると、実に50本という映画に携わったことになります。

 そして昭和39年の東京オリンピックを機に、テレビが普及し始めると、円谷特技プロダクションを設立し、テレビ用の特撮怪獣もの「ウルトラQ」を手掛け、以来ウルトラ・シリーズを意欲的に製作し、その名を不動のものとします。

 長年にわたり、数々のヒーローを世に送り出し、今日の人々にまで、夢を届ける英二監督は、狭心症による発作のため、昭和45年1月、68歳の生涯を閉じました。

 そして今、その英二監督のふるさと、須賀川市では、そのヒーローたちに熱中した年代が、まちづくりの原動力となり、ゴジラのイルミネーションに代表される、ウルトラマンやゴジラのキャラクターを生かした、ハード・ソフト両面の「まち興し」に取り組んでいます。

[発展期]

平成4年
(1992)
4月 高木博氏市長当選(3期目)。コミュニティプラザ開設
  7月 釈迦堂川憩いの河畔が「手づくり郷土賞」に認定
  8月 下宿土地区画整理事業に着手
  10月 下水道供用開始
  11月 デイサービスセンター開設
平成5年
(1993)
3月 福島空港が開港。須三中プール完成。西袋・仁井田・小塩江地域体育館完成
  7月 翠ヶ丘公園万葉の径が「手づくり郷土賞」に認定
  8月 中国洛陽市と友好都市締結
  10月 兵庫県宝塚市へ約230年振りに牡丹が里帰り

[飛躍期]

平成6年
(1994)
2月 駅前自転車等駐車場開設
  3月 須賀川アリーナ完成。稲田・浜田地域体育館完成、、市制40周年記念式典。市の鳥「カワセミ」・市のマスコットキャラクター「ボータン」を制定
  4月 「花と緑のまちづくり基金」創設
  5月 市民スポーツ広場開設
  6月 函館五稜郭に牡丹を植樹
  11月 市民スポーツ広場に市制40周年記念の桜125本を植樹
平成7年
(1995)
1月 上水道の第4次拡張事業に本格着手
  3月 市民スポーツ会館完成
  4月 フラワーセンター開設
  6月 滑走路2,500m化事業の運輸大臣許可
  8月 テクニカルリサーチガーデン整備計画地がうつくしま未来博の会場地に決定
  10月 ふくしま国体秋季大会の卓球・銃剣道競技会を開催(天皇皇后両陛下ご観覧)
  11月 滑走路2,500m化事業の起工式
平成8年
(1996)
2月 北部都市整備事業の工事に着手。日本一のキュウリ選果場完成
  3月 須賀川地方の5農協合併により「JAすかがわ岩瀬」発足.、須賀川地方保健環境組合の「し尿処理施設」完成
  4月 高木博氏市長当選(4期目)
  6月 高木市長逝去
  8月 相楽新平氏市長初当選
  10月 牡丹園発祥230年を記念し「宝塚市で牡丹」「本市でヤマボウシ」を植樹
  12月 滑走路3,000m級化を組み入れた第7次空港整備五筒年計画が閣議決定
平成9年
(1997)
3月 第二保育所新築落成
  6月 小塩江中新築落成
  8月 中国との国際定期路線開設合意
  10月 空港東側アクセス道路全線開通
平成10年
(1998)
4月 市民提案制度開設。中心商店街の街路整備落成。宮の杜ニュータウン落成
  8月 テクニカルリサーチガーデン・メイン進入路の起工式。月末豪雨災害で20億円余りの被害
  10月 情報公開制度開設。テクニカルリサーチガーデン整備事業の起工式
  12月 2,500o滑走路供用開始
平成11年
(1999)
1月 韓国との国際定期路線開設合意

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