須賀川市人物読本 先人のあしあと -030/134page

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器具(きぐ)を使い、病気をなおしました。この器具はめずらしく、昭和六年に逓信博物館(ていしんはくぶつかん)におさめられています。

 このようにして長俊は、病気に苦しむたくさんの人々の命を救ったので、一八四六年に、奉行所からみょうじをなのり、一八五一年には刀をさすことをゆるされました。そのころは、さむらいのほかの人々は、みょうじをなのったり刀をさしたりすることはできないきそくになっていたのです。

 長俊がおこなった種痘は明治三年(一八七〇年)からは、県にひきつがれ、県でおこなうようになりました。明治七年には、政府が種痘のための法律(ほうりつ)をつくって、天然痘を防ぐようになりました。そのため、今の日本にこの病人は、一人もいなくなりました。


 長俊には十人の子供がいて、長男を長安(ちょうあん)といいました。長安は、安政三年(一八五六年)市野関に生まれ、明治四十二年(一九〇九年)五十四オでなくなって


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