須賀川市人物読本 先人のあしあと -031/134page

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います。やはり、父のあとをつぐため明治六年に須賀川医学校に入り、のちに有名な政治家となる後藤新平(ごとうしんペい)たちといっしょに勉強しました。

 長安は、医学校を卒業すると村に帰り、お医者さんになりました。しかし、そのころの政治は、明治維新(いしん)をなしとげた少数の人でおこなわれ、地方の人々の声はなかなか政府にとどきませんでした。

 そのため、高知県の板垣退助(いたがきたいすけ)たちは、議院をつくる運動をはじめ、長安もまた、河野広中(こうのひろなか)(田村郡三春町に生まれ、のちに農商務大臣、衆議院議長となる。)を中心に政治運動の団体をつくりました。その団体は石陽(せきよう)社と名づけられました。

 人間がもって生まれた自由と権利を人々にめざめさせ、民主主義による政治をおこなわせようとしたのです。

 この運動は東日本では一番早く、福島県議会もよその県より一年早い一八七八年に開かれました。一八八〇年には国会を開くよう願いが出され、つぎの年には一八九〇年になってから開くことが約束されました。そこで、自由主義や民主主


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